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時の魔術師 (1)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

時の魔術師 (1)

1.

 始まりは一枚の紙切れだった。

 冷蔵庫の横に、青色のマグネットで留められたチラシが一枚。その裏に父の字でこう記されていた。
 

〈しばらく家を留守にする、後のことはよろしく頼む〉
 

 余りに素っ気ない書き方で、すぐには意味をつかみかねた。それでもクセの強い字は父が書いたものに違いなかった。


 そんな書き置きを残して父は、我が家から姿を消していた。

 厚い雲間から飛行機のエンジン音がする。機影は見えないのに、その音は何かの予兆のように雄介の耳に届く。自分の部屋に置かれたテレビ画面には、気象衛星がとらえた台風の目が映っている。台風は今夜半から勢力を増し、未明には関西圏を通過するという。雄介は階下から呼ぶ声に我に返った。

「雄介、階下(した)に降りてこないか」

 階段口から、耕一郎伯父さんの声がする。父の兄に当たる人だ。昨夜遅く雄介が電話を掛けた電話ので、今朝一番の新幹線に乗って横浜から駆けつけてくれた。新神戸の駅から雄介の家までタシーを奮発したという。

 リビングのソファに腰掛けた伯父は、二階から降りて来た雄介に向かいの席に座るよう促しながら口を開いた。

「何遍も同じことを訊くようで悪いけど、もう一度あの日のことを思い出してくれんか。あいつが家を出て行った日もあの椅子に座って朝飯を済ませた。その時の様子にいつもと違う感じは何もなかったんだな」伯父はそう言っていつも父が座る食堂の椅子を指さした。その椅子は今朝も腰を下ろす者はなく空席のままだ。

 あの日もいつも通り父と二人の食事を済ませた。父はその間新聞から目を離さず、喋りかけてくることもなかった。雄介も昨夜のナイター結果が気になり、食べ終わるまでテレビを見続けていた。伝えたいことがあるならその場で、父から何かのシグナルが出されたはずなのだ。それなのに父は食べ終えるとさっさと自分の食器をシンクに運び、そのまま自分の部屋へと戻って行った。母が亡くなって以来毎朝変わることのない野木家の朝の一コマだった。

 伯父は腕を組んで大きなため息を漏らした。そしてガラステーブルに置かれた書き置きと、昨日届いた父からの手紙に目を遣った。

「これまで見つかった手掛かりといえば、わずかにこの二つだけなんだな。それ以外にめぼしいものは家のどこにも見つからなかったと」

 伯父は身を乗り出すように強い調子で訊いた。

 何度訊かれても答えは同じなのだ。雄介が郵便受けに入っている手紙に気づいたのは昨夜、勤め先の信用金庫から帰って来た七時過ぎのことになる。門扉の郵便受けに夕刊や市役所からの納付通知、各種のダイレクトメールなどと一緒に茶色の封筒が混じっていた。封筒の表には宛名人として野木雄介様と記されているのだが、奇妙なことに封筒の裏を返しても、差出人の欄は所番地も名前も空白のままになっている。筆跡からかろうじて父から来た手紙だと見当はついた。しかも手紙に押された消印によると、その手紙が投函されたのは東京の大田区のどこかのポストらしいのだ。雄介には全く土地勘のない名前で、父は慌てて自分の名前を書き洩らしたのだろう、と善意に解釈するしかなかった。

 どちらにしてもこの手紙はやっとつかんだ有力な手掛かりには違いない。雄介は手紙を手に握りしめたまま、家の中に入るのももどかしく、玄関先に立ったまま封を開け、便箋に目を通し始めた。首をひねりながら最後まで読み終わった。何度読み返しても手紙には、父が家から姿を消した理由は書かれていなかった。今どこで何をしているのか、黙って家を出たのはなぜなのか。こちらが抱くそんな疑問の答えらしいものはどこにも書かれていない。
 

〈突然のことで心配かけていると思う。父さんの勝手を許してほしい〉

こんな書き出しで手紙は始まっていた。
 

 〈雄介も冴子も仕事や子育てに忙しい中、母さんを最後までよく支えてくれた。母さんが亡くなり、四十九日も済ませ、今頃になって私の気持ちも幾分和らいできた。

 そんな私に近頃妙なことが起こり始めたんだ。昼間家に一人いると、どこからか人の声がしてくる。その声を振り払おうと何度も努めてみるんだが、声は日増しに大きくなって消えてくれる気配はない。両手で耳を塞いでも、枕に顔をうずめても、その声は膨らんでいくばかりなんだ。

 (…リクエスト・ポジション…)

 声はそう囁きながら私を追いかけてくる。いろんな医者に診てもらったが、その声を止める薬はなさそうなのだ。ねじを巻き忘れた時計が今頃、耳の奥で動き出したみたいな気がする。

 声の聞こえない場所を探して、とうとう東京のはずれまで来てしまった。ようやく見つけた古い旅館でこの手紙を書いている。窓の外には東京とは思えないほどのどかな風景が広がり、運河の向こう岸に荷揚げ用の大きなクレーンが並んでいる。その先の荒れ地には、朱色と黒に塗り分けられた鳥居が立っているのが見える。そんな景色にぼんやり目を遣っていると、飛んでいる飛行機が鳥居の二本の足の間で、ピタリと空に貼り付いたように見えたんだ。まるで時間が止まったように感じた瞬間だった。大きな旅客機が飛ぶことを忘れ空中に貼り付いて動かない。私の目の前で大掛かりな瞬間移動のマジックを見せられているような感じだった。タネを明かせば、見る人に真っすぐ進んでくる高速の物体は、その人の目には静止したように見えるという初歩的な物理法則、時間と空間のはざまで起こる目の錯覚なのだろう。それでも私はできるなら、マジックを使ってこの光景を観客の前で再現したくなってきた。年甲斐もないと笑われるだろうが、そんなマジックがもしあるとするなら、何年かかってもそれを完成させたいと思ったものだ。

 こちらで片付けなければならない宿題もあるので、帰るのはもうしばらく時間がかかりそうだ。

 当分帰れそうもないので、取り急ぎ知らせておきます〉
 

 伯父は読み終えた手紙をテーブルに置いて天井を睨んだ。頭に手を遣りしきりに困惑の表情を浮かべている。

「昨日の夕方会社から帰ってくると、この手紙が郵便受けに入っていた。弟が家から姿を消して四日も経ってから」

 伯父は四日間の空白にこだわっている。雄介もこの四日間ただ手をこまねいたわけではない。冷蔵庫の横にマグネットで留められた書き置きを見つけて以来、父の不在がこれほど長く続くとは思いもしなかった。気分転換にどこかの川へ渓流釣りにでも出掛けたんだろう、そう軽く考えてしまった。そして昨日この手紙が届いてはっきりと事の重大さに気づかされた。それで慌てて横浜の伯父に電話を入れたのだ。

 玄関から手紙を持って家に入ってからも雄介は何度も手紙に目を通した。何度読み返しても、一家の主が気分転換に渓流釣りに出掛けたとは読めそうもなく、ほかにも何か所か意味の通らない部分があり、それがかえって秘密の暗号めいて読めてしまう。表に東京大田区の消印がなければ、外(よそ)の世界から迷い込んだ秘密の通信文と錯覚させてしまうほどだ。手紙の裏の差出人欄が空白なのもどこか曰(いわ)くありげで雄介には悩ましく映った。

「やっと届いた手紙も、わしには何が書かれてるのかよく飲み込めない。四日も経ってるのに、この家にはほかにもっとわかりやすい手掛かりはなかったのか?」

 伯父は不満そうに語気を強めた。

 雄介も父が姿を消してから漫然とソファに寝ころんで次の報せを待っていたわけではない。横になっていても、不吉な妄想が次から次と浮かんでは消えた。酸素マスクに顔を覆われた父が、どこかの街のベッドで苦しげな息をしていたり、引き取り手のない〈行旅死亡人〉として火葬場へ運ばれていく姿までが、目の前で起こっているように鮮やかに頭に浮かんだ。そんな時父から手紙が届いたのだ。父の直筆の手紙に、雄介もほんの一瞬胸を撫で下ろすことができた。安堵の息をつくこともできた。父がこの手紙を書いてどこかのポストに投函したということは、書いた父はどこかで無事でいると証明されたのも同じことなのだ。大げさに言えばこの手紙は、父がどこかで無事でいることを証(あか)した〈生存証明〉だとも言えた。

 普段の父は家族に積極的に喋りかけることは少なく、どちらかと言えば自分の部屋で一人過ごすことが多かった。父と雄介とは、お互い干渉し合わないよう配慮しながら現在まで暮らしてきた。それが平穏に暮らしていくための知恵だとも考えた。

 その父が突然雄介に相談せず家から姿を消してしまった。朝早く横浜から駆けつけてくれた伯父に、最近の父に何が起こっていたのか、さっそくその顛末を詳しく説明することにした。

2.

 発端は冷蔵庫の横に見つけたあのチラシからになる。

 信用金庫の仕事を七時過ぎに切り上げた雄介は、自分の車を運転して朝と同じ道を家へと戻った。どこに寄り道したわけでもなく朝と同じルートをたどって家路についた。門扉を開けると、郵便受けに夕刊が入ったままで、玄関灯の明かりも消えたままだった。雄介は、玄関ドアのノブを廻した。するとドアはしっかり鍵が掛かっていた。思わぬ変調に雄介は家の中に向かって、「父さん」と何度か呼びかけてみた。しかし家には反応もない。ポケットに予備キーがあるのを思い出し事なきを得たが、雄介は危うく我が家から締め出されるところだった。いつもとは違う気配が我が家に立ち込めているとしか思えなかった。

 雄介は気持ちを鎮めるため、缶ビールを取り出そうとキッチンに入り冷蔵庫に近づいた。すると冷蔵庫の横に、チラシの切れ端が青色のマグネットで留められているのが目に入った。それには父の字で、こう記されていた。

〈しばらく家を留守にする、後のことはよろしく頼む〉

 あまりに素っ気ない走り書きで、慌てて打ち間違えたメールみたいな印象だった。簡潔過ぎて、ただの事務連絡くらいにしか読み取れなかった。タバコを切らしたんで近くのコンビニまで買いに行ってくるよ、そう言っているみたいだった。もう少しで丸めてくず籠に捨ててしまうところだった。

 その夜、十二時を過ぎて目を覚ましても、父は帰っていなかった。待ちくたびれてリビングのソファで寝入ってしまったとみえる。目を覚ましてあたりを見回すと、家内には雄介の楽観論をあざ笑うような気配が漂っていた。家の中は物音一つせず、人の気配もない。目に付くのはリビングの大きなガラス窓に映る蒼ざめた自身の姿だけ。忌まわしい妄想ばかりが脳裏に膨らんでいく。鳴らない電話に眼をやりながら、どこからも問い合わせの連絡がないのはかえって不気味だった。雄介はジャケットを一枚羽織り、父の姿を捜しに深夜の庭へ降りてみた。暗い静寂の中にうずくまる庭石の並びが、何かの骸(むくろ)を想像させる。それ以上庭の闇に足を進める気にはなれず、雄介は速足でリビングへ戻って行った。

 気を取り直し家の中に父の姿を求めた。普段なら父の許可なしに入れない父の書斎兼寝室は言うに及ばず、トイレも風呂場も一々ドアを開けて確かめた。明け方の光が家の中に差し込むまでそんな捜索が続いた。それでも突然吹き抜けた風に体ごと吹き飛ばされたように、父の姿は一夜にして我が家からきれいに消えてしまった。まるで全文削除キーの一叩きで、画面上から一瞬に消えた一かたまりの文章みたいだった。

 マジシャンの使う技の一つに〈物体の瞬間移動〉というのがあるが、その技を目の前で演じられた気がした。大学時代父が入っていたマジック同好会で覚えた技を、暇に飽かせて息子相手に披露したくなったのでは、そんな思いが雄介の頭をよぎった。これがマジックの技なら、消された物体は最後には観客の前に元通りの姿で現われるはず。右手から姿を消した一万円札は、左手から元の姿で現われる。それがマジックの定石、決まり事のはず。ところが父は一枚のチラシの向こうに姿を消したまま、一晩経ってもこの家に再び姿を顕(あら)すことはなかった。まるで父自らが自らの意思で、〈無〉の世界へと旅立ってしまったような消え方だった…。

 書き置きを見つけたあの日の朝も、父の素振りに別段いつもと変わった様子は見られなかった。普段通り二人だけの会話の乏しい朝食を終えると、雄介は出勤準備のため二階の自分の部屋へ引き上げた。着替えを終えて、庭の隅に止めた白色のワゴン車に乗り込んだのが八時過ぎ。この車も当初は父に保証人になってもらいマイカーローンで新車を購入するはずだったのに、手続きの最終段階になって、肝心の父から保証人にはなれないと断られて。勤めて一年にもならない若造が、他人の金を当てに大きな買い物をすべきではない、それが父の反対する理由だった。他人という言い方に雄介はカチンときた。たかが車一台のローンのことで目くじらを立てる父の態度にも腹が立った。このまま家を出て職場近くで自活しようとまで考えたのだが母の仲裁もあり、中古の車を現金一括払いで購入することで落ち着いた。息子が小規模とはいえ金融関係の職場に就職できたのを喜びながら、一方でローンの保証人になるのを嫌がる、そんな父の矛盾する性格を、雄介はいまだに理解できずにいる。

 出発前のアイドリングをしながらフロントガラスの向こうに目を向けた。深みを増した晩秋の空に、刷毛でひと塗りしたような白いすじ雲が山の端にかかっている。何気なくルームミラーに目をやると、犬のアンサーを連れた父の姿が映った。二年ほど前に父が近くの河原で拾ってきた野良犬だ。鏡の中の父と一瞬目が合った。ミラーに映った父の表情に、こちらに話しかけてくる素振りはなかった。犬を連れて近くの河原へ散歩に行くんだろう、そう思っただけだ。しかし今となっては、その時ミラーに映った父の姿が最後になってしまった。

 土手沿いの坂道を、着古した黒いコートに身を包んだ父が歩いていく。寒そうに背中を少し丸め、片手には犬を放した鎖(リード)をぶら下げている。時折り足を止め、犬の名を呼ぶ。戻らない犬の姿を捜しているのだろう。犬を捜す父の姿は、朝もや煙る薄闇にふっと消えてしまった…。

 

「なあ、雄介」伯父の声に我に返った。「あいつの携帯に、連絡は入れてみたんだろうな」

「もちろん何度も電話を掛けたしメールも送りました。それでも返事はまったくないんです。後でわかったんですけど、親父は自分の携帯を机の中に残したまま家を出たらしいんです」

「自分の携帯を家に置いていった?」伯父は信じられないというふうに目を丸くした。

「置いていったのは携帯だけではないんです。銀行のATMカードや運転免許証、そんなものまで机の引き出しに残してたんです」

 書き置きを目にした雄介は、気持ちを抑えながら父の部屋へと入り、机の引き出しを次々開けていった。普段なら父の承諾なしにこの部屋に入るのは憚(はばか)られるのだが、その時の雄介は気が動転していた。入室の承諾をする当の父は家のどこにもいない。主(あるじ)の断りなしに、いわば勝手に部屋に踏み込む以外雄介の取る方法はなかった。

 机の小引き出しを開けていくと、その一つに父が普段使っている携帯電話が残されていた。個人情報など考える余裕もなく、雄介はおそるおそる携帯の画面を見ていった。ここ数日の間に雄介が送った何通かの受信記録は残されているが、それ以前のデータは消されている。電話帳にも誰の名前も出てこない。家を出る時父がそれらを消去したとしか考えられなかった。父みずからアクセス拒否の状況を作り出し、自分の後ろを追うな、そう宣言しているみたいだった。

 家に残されていたのは携帯電話だけではない。銀行カードや健康保険証、運転免許証までが引き出しの目に付く場所にわざとのように置かれていた。これらは肌身につけて動かなければ、街は富士の樹海より深い迷路の連なりに変わってしまいそうなのに。雄介宛に送ってきた手書きの封書も考えればどこかアナログめいて、古風な通信方法の印象を受けた。

「家を出る時慌てて、置き忘れていっただけではないのか」伯父は訊いた。

「それならこんなにきれいに、携帯のデータまで消すことはないはずでしょう。家を出る時手がかりになりそうなものを、自分の意思で消していった、そう考えた方が自然だと思います。それが何のためかはわからないけど」

 携帯電話の位置情報から、その人の現在位置を特定できる。生半可に知ったそんな知識に影響され、父は自分の足跡を消せると考えたのかもしれない。

「携帯を家に置いていったのも妙な話だが、手紙に書かれたこの部分、何度読み返してもわしにはさっぱり意味がつかめない。お前はこの部分をどう考えたんだ?」

 伯父は(リクエスト・ポジション)の一行を指でなぞりながら雄介に顔を向けた。雄介が閊えたその同じ個所だった。直訳すれば、「自分のいる場所がわからない、誰か教えてほしい」そんな意味になるんだろう。どこかに進んでいるつもりが、気づいたら見知らぬ土地で迷子になっていた。父のそんな困惑が表現されているのかもしれない。手紙の差出人欄が空白で抜け落ちているのも気になる。意味のよく通らない手紙なのだが、これだけの文章を書いてきたのだ。街のどこかで書いた本人が突然記憶喪失に陥ったとは考えられなかった。

「この一行が何の意味なのか息子のお前にわからないなら、書いた本人から直接訊いてみるしかないな」

 当惑する雄介に伯父は付け加えた。

「手紙の最後に、片付けないといけない宿題があるとも書かれてる。この言葉に心当たりは?」

雄介は首を横に振るしかなかった。

父は長らく中学と高校の英語教師をしていた関係で、生徒に宿題を出す立場には慣れていたが、出される側に回るのは考えにくかった。もう少し丁寧に家の中を捜せば、父が古くから愛用していた〈辞書〉のようなものが見つかるかもしれない。そう思いついた雄介はすぐさま、この四日間の報告を兼ねて横浜の伯父と大阪に住む姉の冴子に電話を入れたのだ。それが昨日の夜遅くのこと。翌日家に着いた二人にさっそく父からの手紙を見せたのだった。
 

 強い風が吹き過ぎ庭の樹々が一斉に騒いだ。ガラス窓の向こうで白木蓮の大ぶりの枯葉が風に舞った。この樹は母のたっての願いで家を建て替えた後も、植えられた場所は変わったが、同じ庭で元気に育っている。

 長い時間ソファに座り続けた伯父は腰をさすりながら立ち上がると、飾り棚に置かれた家族写真のフレームを手に取った。写真は野木の家の改築記念に撮ったもので、両親や大阪の消防士のもとに嫁いだ姉も雄介も、真新しい家の前でにこやかな顔を寄せ合っている。

「この家を建て替えた時の写真なんだろう。みんな元気そうでいい顔してる」伯父は写真に目をやりながら独り言のように言った。それから七年しか経ってないのに、こんなことが起こるとは息子の雄介だって想像さえしなかった。

 母は去年の暮れに亡くなって、そろそろ一年になる。母が生まれ育った建て替え前の実家は、祖父が地元の棟梁に頼んで建てただけあって、雨風に晒(さら)されながらもどっしりと地面に根付いた風格があった。

 父はそんな我が家を、基礎から取り壊して新しく建て替えることに決めた。最後まで反対したのは母の千賀子だけで、雄介も姉の冴子もむろん父も、古い家を見限るように現代的な意匠の家に住み替える方を選んだ。ところが父は自分に課したノーローンの条件を頑(かたく)なに守ったため、工事の着工は大幅に遅れ、結局父の退職まで延ばされてしまった。退職金のほとんどを使っても父はこの大仕事をどうしても成し遂げたかったのだろう。父にとってはそれほど思いのこもった我が家だった。そんな父が今頃になって何の前触れもなく家から姿を消してしまった。

「横浜からこの家に婿入りして、ようやく浮かべた笑顔なのに」伯父は写真に写る弟に話しかけるようにそう呟いた。

 父は元々横浜の〈吉川〉の実家で育ち、大学もその家から都内の大学へ通った。卒業後はしばらく横浜の中学校で英語教師をしていたが、何の縁があったのか神戸の高校の英語教師として奉職することになった。横浜から神戸に転居した父はそれからしばらくして、入り婿として〈野木〉の家に入ることになった。どんな経緯でそうなったか、雄介は詳しくは聞いたことがない。それでも次男だからできる身軽さだな、と噂した人たちもいたと聞いている。

 雄介も父と同じような道をたどり、神戸の高校を卒業すると、父と同じ都内の大学へと入学した。そのため横浜の伯父の家に卒業まで下宿させてもらうことになった。卒業後は父と同じく現在の神戸の我が家へ戻り、そこで信用金庫に就職した。
 

 大阪市内から駆けつけてくれた姉の冴子が、トレーに湯気の立つ湯呑を乗せリビングへ運んできた。子供を保育園に預けたその足で、車を運転してこの家まで駆けつけてくれたのだ。先ほどまで和室のタンスを調べていたがその作業もひと段落したのか、湯呑をテーブルに並べながら姉は口を開いた。

「覚えてない? 母さんの形見分けした時、わたし、父さんからひどく叱られたの」

 その場面なら今でもよく覚えている。姉が壊れかけの懐中時計を欲しいと言った途端、父は顔を真っ赤にして怒りだしたのだ。周りの誰もが身を固くするほどの剣幕だった。

「普段はあんな時計、見向きもしなかったのに、わたしが欲しいと言った途端、それは母さんの形見ではない。欲しいなら私が死んでからにしてくれ。そう言って、体から煙が出るほど怒りだしたんやから」

 居合わせた者はわけがわからず、しばらくその場に立ちすくんだのをよく覚えている。

「その時計が、どうかした?」雄介は訊いた。

「さっき見たら、しまったはずのタンスの引き出しから、その時計がなくなってる」

しまう場所を変えたのかもしれない。ねじを巻いてもピクリとも動かない古い懐中時計なのだ、不用品としてほかのゴミと一緒に捨ててしまったのかもしれない。

「スクラップ同然の時計が消えたくらいで、そんなに騒がなくても」雄介はさらりとかわした。

 父が姿を消したこの時に、そんなことで時間を無駄にしたくなかった。雄介は姉の言葉を受け流すように話題を変えた。

「そんなことよりつい最近、ご近所の奥さんから、気になる話を聞かされたんだ」

 伯父と姉がそろって雄介に顔を向けた。

「ひと月ほど前の明け方のことなんだけど、電柱の陰から家(うち)の写真を撮ってた男がいたらしい」

 向かいの野々宮の奥さんが出勤前の雄介を呼び止め、その朝早く目にした話を聞かせてくれた。雄介の家にカメラを向けていた男に近づくと、慌てて止めてあった車で走り去ったという。空き巣に入る下見かと身を固くしたが、被写体になった野木の家は、成人男子が二人で暮らしている。本物の空き巣狙いとは思えず、雄介もその時は世間話程度に受け流した。しかし父が家から姿を消してからは、そんな話がなぜか妙な現実味を帯びて頭に何度も浮かぶのだった。表向きは些細な出来事にしろ、思い返すとその出来事は、野木の家に何か不穏なことが起こる前兆だったかもしれない。

「この家、売る話でも出てるのか?」伯父は身を乗り出して訊いた。雄介は手を強く振って打ち消した。

「それはあり得ないです。建て替えてまだ七年しか経ってない新築同然の我が家ですよ。それを僕らに相談もなしに手放すなんて、まったく考えられない」雄介はきっぱりと言い切った。

 新築した当時、祝いに訪れた父の元の教え子や同僚との会話の端々に、新しい我が家に対する父自身の思いが滲(にじ)んでいた。何よりノーローンだと言うのが父の自慢だった。そんな我が家をたった七年で手放すなんて考えられなかった。

 伯父は二人に交互に目を遣りながら言葉を継いだ。

「考えはだいぶ聞かせてもらった。その上でのわしの判断だと思って聞いてほしい。ここはひとつ頭を冷やすために、しばらく様子を見ることにしては。そのうち弟も、すっきりした顔付きで家に帰って来そうな気がするんだ」

 伯父の判断は楽観的に過ぎるのでないか、雄介はそんな気がしたが自分でも具体的な方策が浮かばない以上黙って聞くしかなかった。

「ここはヘタに騒ぎ立てるより冷静に構えた方がいい。家の主(あるじ)が魔法使いの親玉に攫(さら)われて突然家から姿を消してしまった、そんな噂が近所に広まって困るのはお前たちの方だ。なかでも銀行勤めしている雄介が一番困ることになる」伯父は付け加えた。

 突然伯父の口から出てきた「魔法使いの親玉」が何の例えなのかよくわからないが、この家の主が魔法使いに攫われた。そんなデマが流されて一番困るのは確かに雄介自身かもしれなかった。ここはむやみに騒ぎ立てるより、事の推移を冷静に見守る方が賢明かもしれなかった。

 点けっぱなしのテレビに波のしぶく博多港の岸壁が映されている。ヘルメット姿のアナウンサーが、両手でマイクにしがみつき口を動かしている。強い風に煽られ口から出た言葉は画面のこちらまで届いてこなかった。

 伯父は残ったお茶を飲み干し、

「今日の所は、これでいったん横浜へ帰らせてもらう。こんな台風がまともに来たら、うちのぼろ家なんかひとたまりもなさそうだから」

 伯父はそう言って腰を上げた。

「それやったらわたしの車で、伯父さん駅まで送っていく。わたしも保育園に子供迎えにいく時間やし」

 そう言いながら姉の冴子も、テーブルの茶碗を片付け台所へ運んでいった。

 上がり框に立って雄介は、靴を履く伯父と姉を見送った。姉は黒革のポーチに入った車のキーを指で探りながら、思い出したように雄介の方に顔を上げた。

「整理ダンスの引き出し、自分の目でもう一度確かめておいて。間違いなくあの懐中時計はタンスの引き出しから消えてる」

 雄介は取りあえずうなずいておいた。送られてきたときには金色に輝いていたにしても、今では蓋に世界地図のようなシミが広がり、竜頭を巻いても一秒たりとも動かないガラクタになってしまっている。そんな代物(しろもの)を父があえて持ち出したと考えるのは無理な話だった。

「明日はうちの夫(ひと)休みやから、もう一度昼からここへ寄ってみる。日曜やから、あんたも家にいるよね」

「明日?」雄介は訊き返した。「明日は予定があって、たぶん朝から留守にする」

「たまの日曜やから仕方ないけど、いつでも連絡取れるようにしといて。そう言えば会社の昇進試験、もうすぐやないの? 母さんとあれだけ約束したんやから、今年は大丈夫?」

 雄介は自信なさげに笑みを返した。新幹線の出発時間が気になるのだろう、門扉の前に止められた車の助手席で、伯父はしきりに腕時計を気にしていた。

3.

 十七時から始まる夜間勤務者との引継ぎを済ませ、金沢春香はシルバーメタリックのサイクリング車に乗って職員駐輪場を後にした。小高い丘の中腹に建つ介護施設〈コスモスの里〉から国道までの坂道は割と急で、そこに桜の樹が何本も植わっている。街路灯も張り出した枝に邪魔され薄暗く、早めに暮れていくこの季節は油断していると転倒事故を起こしかねない。まして、こんな風の強い夕暮れはなおさらだった。

 国道へ出てからも横から吹く風にハンドルを取られる。春香のサイクリング車が一瞬ふらつく。追い抜きをかけてきた大型トラックのクラクションが耳の真横で響いた。気を引き締めようと片手でダウンベストの襟を立て、ゴーグルの曇りを指で拭った。

 明日は久しぶりに雄介さんと休みが重なり、六甲山へドライブする約束になっている。そのことが気持ちを引き立ててくれるわけではないが、一人部屋で過ごすより少しは気分も変わる。帰り道スーパーに寄って、明日のお昼の弁当用の材料を買っていくことにした。

 アパートの駐輪場に自転車を止めているとコーヒーの空き缶が風にあおられ、鉄柱に当たって寂しげな音を立てた。蛍光灯の明かりに照らされた外廊下を部屋のドアへと進み、スチールドアのキーを回した。その途端腕に痛みが走り顔をしかめた。視線を落とすとセーターの袖から、真新しい包帯がのぞいている。痛みが引いていたので、春香は昼間の出来事をすっかり忘れていた。

 〈コスモスの里〉の昼下がりのことだ。利用者に順番で入浴してもらう段取りをしていた。利用者の中には昼ご飯より、午後の入浴を楽しみにしている人も多い。そんな中で藤崎のおじいちゃんが、「順番が遅い」と文句を言い始めた。言い出すと止まらない人だということはわかっていた。春香は車いすに座る藤崎老人に、順番を待ちましょうね、となだめて待ってもらうことにした。その時老人は、突然顔を青ざめさせ叫び声を上げた。

「こんなとこにいつまで閉じ込めておくんや。いつになったら家へ帰してくれる?」

 そうわめきながら、春香の右手に噛みついてきた。すぐに仲間が引き離し、春香を処置室に連れていき応急の手当てをしてくれた。老人は溜まった怒りを発散すると、もう何に怒ったのか忘れたようにおとなしく順番に従い始めた。藤崎老人には帰る家も頼る縁者もいないのに、時として、ここではないどこかへ帰りたがる。春香も当初の痛みが引いてくると、次々押し寄せるその日の作業に痛みを忘れていった。

 部屋の照明を点けてからも、藤崎老人の声が耳に残った。ここは自分の居場所ではない、身体全体でそう表そうとした老人。春香は部屋着に着替えることも忘れその場にうずくまり、両手で膝を抱え目を閉じた。向かい風(アゲインスト)が強過ぎると感じた時、小さな頃から春香はこの姿勢でその風をやり過ごす方法を学んでいた。

 強い風に大粒の雨が混じり始めた。窓ガラスを叩く雨音が強くなる。その音で春香は我に返った。

 両親の干渉からなるべく距離を置いて暮らしたい。その一念で我が家を出て、神戸の祖母の家に身を寄せた。その祖母が亡くなってからも家に帰りたい気持ちは起こらず、今も自分の落ち着き場所を見つけ出せず神戸中を転々としている。昼間の藤崎老人の声はわたしの声かもしれない。高校二年の冬休み、あんな出来事さえ起こらなければ、とも思う。しかし出来事は現に起こってしまったのだし、その延長線上に今の自分がいるのも確かなのだ。

 テーブルにある固定電話が鳴った。この電話が鳴るのは東京の母からか、職場の緊急連絡か、営業の売り込みがほとんどだ。今夜の電話は夜間チーフの佐藤さんからだった。以前の入所者で今は在宅に切り替えている一人暮らしのおばあちゃんから、「春香さん」を名指しで施設に電話が入ったという。物干し竿が風で飛ばされ、窓ガラスが割れてしまったらしい。連絡する相手を間違えているとは思ったけれどむげに断ることもできず、施設の軽自動車で迎えに来てもらうことにした。

 おばあちゃんの家に着くと、介護士の男性と手分けして割れたガラスを取り除き、窓枠にベニヤ板を打ち付けた。本格的な修理は明日ガラス屋さんに来てもらうから、と春香のレインコートを離さないおばあちゃんを納得させ車に乗り込んだ。助手席に腰を下ろした春香は濡れた髪をタオルで拭きながら雄介に携帯で電話を入れた。
 

 リビングのソファに寝転んだ雄介は横になったまま、窓に吹き付ける風の音を聞いていた。この地域も暴風圏に入ったのだろう。気圧が下がり耳の奥が圧迫される。一人きりで我が家に残されてみると、室内にこもる空気はやけに重く、生臭く、いつもの我が家の空気と違う匂いがしてくる。

 突然鳴り出した電話に、雄介はソファから半身を起こした。着信音から金沢春香だとすぐにわかった。助かったと思わず独り言ちた。父の不在がこれほど身体に応えるとは思わなかった。これ以上一人で台風の行き過ぎるのを待つのは耐えられなかった。

「今、かまわない?」春香の声が流れた。

「もちろん」雄介は応えた。

「すごいわね、この風。何も壊されてない? こっちはもう大変」

「今、どこにいるんだ?」

 春香の携帯電話が風の音をまともに拾っている。部屋から掛けているのではなさそうだ。

「以前受け持っていたおばあちゃんの家の窓ガラスが割れてしまったの。こんな夜に来てくれるガラス屋さんもいないし。当直の男性とその家でベニヤ打ち付けてこれから帰るところ。服はもうずぶ濡れ、散々な夜だわ」

 車の助手席に座りながら電話しているのだろう。ずぶ濡れになった彼女を横に乗せて走る当直の男性に、雄介は軽い嫉妬のようなものを感じてしまった。

「お父さんから、何か連絡は入った?」声をひそめ、春香が訊いた。

 昨日届いた父からの手紙のことを話そうかと一瞬ためらった。しかし彼女は今、一人ではないのだ。それには口を噤(つぐ)んでおくことにした。

「明日は予定通りでいいのね?」

 彼女は話題を切り替えるように訊いた。

「この風も収まって、明日は絶好のドライブ日和になると思う。昼飯時でもいい、君に読んでほしいものがあるんだ」

「読んでほしいもの?」一瞬の間が空いた。そして、「あなたからのラブレターなら、少し早すぎない?」と、春香の笑い声が流れた。大事な話を茶化されたようで、雄介は次に続ける言葉を詰まらせてしまった。

「ごめんなさい、冗談を言うつもりではなかったの。じゃ、電話切るね。わたしも明日、楽しみにしてる」

 春香の電話はそれで切られた。
 

 深夜に入って雨風の勢いはさらに増した。どこかで屋根瓦が落ちて砕ける音がする。雄介は二階の部屋に上がりそのまま浅い眠りに入った。どれくらいまどろんだか、電線が風を切る鋭い音で目を覚ました。ベッドから起き上がると手探りで、壁のスイッチに手を伸ばした。何度押し直しても天井灯の明かりは点かない。窓越しに目を遣ると、このあたり一帯が停電している。

 机の引き出しから手探りでビームライトを取り出し、青白い光を頼りに再び階段を下りていった。リビングの大きな窓のロックを確かめ、勝手口のサッシドアも内側から固く締め直した。食卓の固定電話は鳴り方を忘れたように押し黙り、いつまで経っても鳴る気配はない。受話器を取り上げ耳のそばにかざした。受話器の向こうからは無機的なノイズ音が流れてくるだけで、人の声はしない。ビームライトの青白い明かりのせいでリビングもどこか寒々として、父親の不在という事実がひと際重たく胸にかぶさってくる。

 風呂場の横にある洗面台を通る時、その鏡に蒼ざめた自分の顔が映った。足を止めその鏡像に向き合った。すると鏡の奥に――ということは雄介の背後に――何やら人影らしいものが通り過ぎた気がした。暗くてはっきりしないが、父の部屋あたりでその影は消えた。思わず、あっと声を上げた。嵐に紛れて父がこっそり家に帰って来たのでは、そんな思いが胸をよぎったのだ。溜まった疲れが見せた幻かもしれないと思いつつ、念のため父の部屋を覗いてみることにした。廊下を歩き出した時、洗面台の蛍光灯が瞬(またた)きながら再び灯った。どうやら停電は復旧したようだ。

 足を踏み入れた父の部屋は、書き置きを見つけて慌てて飛び込んだあの時のままなんの変化も見せない。とっさのことで気も動転していたため、あの時はとても部屋の隅まで調べて回る余裕はなかった。今回は比較的気持ちも落ち着いて、部屋のクローゼットを開け中まで目を通すことができた。

 この部屋は息子の雄介が知らないうちに、いつの間にか父専用の〈聖域〉扱いにされ、家の主のための特別な空間と見なされるようになった。母も父の断りなしに、この部屋には入れなかった。ところが本人の希望通りそんな部屋が実現しても、父の家での存在感は薄れていくばかりだっだ。部屋に閉じこもって、まる一日家族の誰とも顔を合わせないこともあった。訪ねて来た客からはそんなスペースが在ること自体奇異に映ったかもしれない。しかしそれが野木の家族の暗黙の了解事項として今に至るまで続いている。

 雄介はクローゼットの扉をおそるおそる開けて、中を確かめた。洗面台の鏡に映った人影が、身を隠すとするならこのスペースしかない。中に吊るされた父の衣服や衣装ケースをかき分け、奥まで手を差し入れてみた。人の潜んでいる気配はない。吊るされた衣服から、父の残り香がわずかに鼻先をかすめた。壁沿いに造られた書棚には、分厚い書籍も並べられ、雄介の読んだこともない題名の書籍も目に付いた。古そうなレコードのジャケットやCDケースの横に、マジックで使うトランプやサイコロなど小道具も転がっている。主の不在のせいか部屋はどこか侘しげで、しばらく開け閉めされていないためか、室内の空気は何層にも塗り重ねられたように淀んでいる。

 雄介は窓際に置かれた父の机に近づき、おそるおそる黒い革張りの椅子に腰を下ろした。背もたれの付いた両肘付きの立派なものだ。しかし座り心地は見た目ほど良くなかった。とても長い時間座っていられそうもなく、こんな椅子に腰を下ろして父は毎晩何を考えていたんだろう、そんな考えが頭をかすめた。時折り強い風が窓ガラスを震わせる。その風に抗うように雄介は、椅子から立ち上がると胸の内で呟いた。

 (父さん…。あなたに一体、何が起きたというんだ!)

 耳を澄ませても、闇の向こうから応えはない。耳に届くのは吹き付ける強い風の音だけ。雄介は明日行く春香とのドライブのことに頭を切り替え、自分の部屋へと引き上げて行った。

時の魔術師 【全8回】 公開日
時の魔術師(1) 2026年10月8日