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『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 〜 人口減少社会の教育(その1)

荻原 彰

「人口減少社会の教育 日本が上手に縮んでいくために」の著者の荻原彰です。この本と関係あるような無いような話なのですが、まずは自己紹介をしたいと思います。
 
私の生まれ育った場所は長野県東部の佐久というところです。今住んでいる三重県では佐久と言ってもたいがいわからないのですが、軽井沢のそばですと言うと、「はは~ン」と何となくわかったような顔をしてくれるし、なんとなくハイソ(これは死語かもしれません。わからない人はググってみてください)に見てくれるので、「軽井沢の近くの出身です」と言うようにしています。
 
佐久というところは、雪はさして降りませんが、とても寒いところで、水を入れた茶碗を一晩ほっておくと、水が凍って茶碗が割れたりします。逆にその寒さを利用して、冬は田んぼに水を入れてスケート場にしました。各集落ごとに子どもが管理する田んぼスケート場があって、冬の休日は毎日そこで遊びました。当時まだまだ盛んだった養蚕用の桑の実を食べて口のまわりを真っ赤にしたり、川遊びで魚を取ってきて焚火で焼いて食べたり、絵にかいたような田舎の子どもでした。
 
こんな子ども時代を過ごしたためか、中学・高校の時には自然の中で暮らせる仕事がいいなとぼんやり思っていました。-自然の中で暮らすには農業がいい。でもボクは末っ子だから農地がない。そうだ営林署で木を植える人になればいいー と中学2年の時に親に話したら、母親に猛烈な勢いで却下されました。あっさりメゲて、-思い切り田舎の小学校の先生になれば自然の中で子どもと遊んで暮らせる。それにヘキチ手当というのもあるらしいぞー と先生の仕事への激しい誤解とあさましい打算で教員になろうと思ったわけです。
 
結果的には小学校ではなく高校の教員になったのですが、田舎の学校勤めが長かったので、子どものころの夢は結構実現できたと思います。
 
大学の教員になったというのは、かなり劇的な転換ですが、発端はじゃんけんで負けたことです。須坂高校というのんびりした学校で2度目の担任をしたいもの同士でじゃんけんをし、負けて1年副担任をやっている間に上越教育大学への内地留学が決まりました。そこで出会った生涯の恩師の戸北凱惟先生に博士を取りなさいと言われて、一生懸命論文を書き、ためしに大学の公募に出してみたら、三重大学が採用してくれたというわけです。
 
ずいぶん自己紹介が長くなってしまいました。次にこの本を書いた理由を述べます。

『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 〜 人口減少社会の教育(その1)

人口減少社会の教育 【全2回】 公開日
(その1)『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 2020年4月29日
(その2)『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 2020年5月29日

この本を書いたのは・・・

『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』

突然ですが「木綿のハンカチーフ」という歌をご存じですか。私の高校時代にはやりました。歌い出しは「恋人よ、君は旅立つ。東ヘと向かう列車で」です。もちろん、東とは東京のことです。勉強のできる同級生がいて、彼はこの歌をよく口ずさんでいました。まるでこの歌のように、彼は東京へ出ていき、故郷へは戻りませんでした。何の変哲もないエピソードで私もすっかり忘れていたのです。でも思い出すきっかけがありました。

 
数年前、ある小さな町の学校教育課長にインタビューしたときのことです。
 
彼女は
 
―いい学校に行って、いい大学に行ってと育ててきた自慢の子どもたちは都会に出てしまい、残された親は寂しい老後を送っている。若者を育てては働く盛りになったら都市へと送り出していく教育は間違った方向だったのではないかー
 
と自問自答するように語ってくれました。
 
この言葉に私は胸を突かれるような思いがし、同時に上述の友人のことを思い出したのです。親も高校の先生も子どものために良かれと思って都会の大学などへの進学を勧めます。しかしそのことが、故郷を寂しくしているのです。
 
もう古くは明治以来、飽くことなく地方から都会へ、特に東京へ若者が流出してきました。私たちはそれを当然だと思ってきたのですが、ふと気づくと故郷を支えてくれる若者がすっかり少なくなってしまいました。教育が村を滅ぼす手助けをしてしまっているのです。これではいけない、村を捨てる教育ではなく、村を育てる教育へ変わっていくべきだ。そんな思いをこめてこの本を書きました。

 
 
この本には私の教育に関する様々な思いを詰め込みました。その分話題が豊富というか雑駁というかいろいろなことを述べています。どれが重要ということはありません。しかしこのサイトには字数制限もありますので、取り上げた話題の中から、今後、私がさらに深めていきたい話題に絞ってご紹介します。詳しくは本の方をご覧ください。

 
 

高校の高等教育への延伸

社会科の教科書で、人口ピラミッドのいろいろなパターンをご覧になったことがあると思います。多産多死型だの少産少死型だのというアレですね。今はどこの自治体の人口ピラミッドもウェブ上で簡単に見ることができます。少子化が進んでいるので、全体的には下の方がすぼまっているのですが、地方都市や郡部では15歳~29歳のところがその前後の年代に比べてベコッとへこんでいます。なぜだか予想がつきますよね。そう、この年代の人たちは就職や進学で出て行ってしまうのです。そしてそのまま故郷に戻ってこない人も多いのです。いわゆる社会減ですね。自然減はしかたがないとしても、この社会減はどうにかならないでしょうか。
 
もちろん移動の自由は基本的人権の一つですから、これを制約することはできません。都会へあこがれて故郷を出ていく若者の気持ちも理解できます。実際、NHKの朝ドラは田舎の才能ある女の子が両親の反対を押し切って都会に出て行って成功してメデタシメデタシというパターンが多いですね。
 
ただ今の若者たちが一様に都会志向かというとそんなことはありません。地元志向の若者も当然います。むしろ都会への強烈なあこがれを抱く若者(私の好きな浜田省吾が「Money」で歌っているような)は昔より比率的にはかなり減っていると思います。地元に残りたい若者たちには地元に残ってもらい、地元で勉学しながら地場産業や地元の公共機関とつながって、やがて地元に就職する、そんな流れができれば、そしてそれを太くすれば社会減の問題の解決につながっていくのではないかと思うのです。
 
しかしながら、こと進学について言えば、そもそも自宅から通える範囲に高等教育機関がない地域も日本にはずいぶん多いのです。そういうところでは、否が応でも外に出ていかざるを得ません。
 
ではそういう地域に大学などの高等教育機関を造ればよいのでしょうか。造れればよいのかもしれませんが、そう簡単な話ではありません。18歳人口の減少が止まらない(今後2015年までの5年間で10万人以上減ります)中で新たに高等教育機関を造ることは経営上大きなリスクです。
 
そこで私が注目しているのは高等学校です。高等学校は島しょ部などの例外はありますが、おおむねどこの地域からも通えます(ユニバーサル・アクセス)。そして特に専門高校では広大な校地と実習施設を持ち、課題研究という授業を通して研究指導の経験がある教員と地元との深いつながりという既存の資源を持っています。それを基盤として、博士号を持つ教員の雇用や近隣の大学との連携により研究機能を付加した専攻科を新増設して、現在の高等専門学校のような機関へと再編するのです。
 
これにはそれなりの財政負担は伴います。しかし、考えてみてください。子どもを一人都市部の大学に送れば、親は大変な負担を強いられます。ただでさえ地方は所得が低いのに、地方から都市へ教育費という形でお金が流出します。それは地域経済や地域の税収に大穴が開いていることを意味します。冒頭の学校教育課長の話のようにその子が都市で就職すれば、その子の高校時代までの教育投資で培われた資質能力(経済的に言えば稼ぐ力)も流出することになります。もちろんこのような話は教育の経済的側面のみに注目した、その意味で偏った話ですが、経済的に引き合わない話ではないということを言いたかったのです。
 
国の支援も必要でしょう。大学無償化に7600億円の財源が必要だと言われていますが、その一部をこの新しいタイプの高校の新増設に費やしてもよいでしょう。地方創生と高等教育無償化を同時に行うことができます。
 
特に私が喫緊の必要性を感じているのは、看護・介護人材の養成です。2025年には東京での看護職員は最大27万人不足し(厚労省推計)、介護職員は3万6000人不足する(東京都の推計)とされています。今後大都市部で大量の看護・介護人材の不足が見込まれているのです。大都市部の医療機関、介護機関が看護系大学等の学生に対して猛烈な求人活動を行い、高給で勧誘すれば、地方の地方ともいうべき郡部や小さな町に看護・介護を志す人たちが戻ってきてくれるでしょうか。そんな時がすぐ目の前に迫ってきているのです。看護専攻科を新増設し、地元が好きで看護師や介護職にあこがれる子どもたちが家から通える看護教育機関、地元の病院と連携して地域の医療課題に取り組む、一定の研究機能も果たすことができる教育機関が緊急に必要だと考えます。

 
 

助けられる人から助ける人へ

「釜石の奇跡」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。東日本大震災の際に宮城県釜石市立釜石東中学校の生徒は自ら率先して津波から逃げる行動を起こす率先避難者となり、さらに隣接する鵜住居小学校の児童の手を引き、誘導して避難し、その結果、当時、学校管理下にあった鵜住居小学校、釜石東中学校の児童・生徒全員が無事に避難することができたことをさします。このとき、中学生たちは園児を避難させていた保育士と出会い、一緒に園児を抱え、台車を押して園児を避難させたそうです。この背景には釜石東中学校の「EAST レスキュー~『助ける人』になるための全校防災学習~」の積み上げがあります。
 
私たちは、中学生といえば子どもであり、「保護すべき存在」、受動的存在(助けられる人)としてとらえがちですが、「助ける人」の役割が与えられ、その役割に向けて学びを積み重ねたとき、奇跡を起こしうるほどの力を持っていることがわかります。
 
突然話は変わりますが、尾崎豊の「卒業」という歌は多くの方がご存じかと思います。「卒業」の中で「俺達」は「放課後 街ふらつき」、「退屈な心 刺激さえあれば 何でも大げさにしゃべり続け」ます。なぜ、10代ってこんなに不安定で退屈し、葛藤に満ちているのでしょう。もちろん学校とか社会からの締め付けというのもあるでしょう。でも「この支配からの卒業」してもこの退屈や葛藤からも卒業できるのでしょうか。
 
私は尾崎のデビュー後、しばらくしてから教員になったのですが、まさに「信じられぬ大人」としてある意味生徒たちと闘っていました。彼らと対峙する中で感じたことは、彼らがバイクで暴走したり、無意味なケンカをしたりすることの背景には、抑圧への反発以上に「何のために学校に来るのか」、「なぜ学ぶのか」に疑問を感じていること、にもかかわらず学びを強いられることに強いいらだちを感じていることがあることです。しかし彼らは文化祭とか地域のお祭りとかで役割を与えられると人が変わったように一生懸命になるのです。
 
「釜石の奇跡」と尾崎豊の「卒業」、関係なさそうなのですが、底の方ではつながっていると思います。おそらく私が対峙した子どもたちも、釜石の子どもたちのように率先避難とその途上で弱者を助けるという役割を与えられたら、もちろん訓練は必要でしょうが、立派にこなしたのではないかと思います。今にして思えば、彼らの教育と生活が分離してしまい、何かの役割を果たしてその手ごたえを実感する機会、役割を通して「自分に何ができるのか」、「自分は何者であるか」、つまりはアイデンティティを知る機会が失われていたのです。
 
人は「自分とは何か」という自分の輪郭(アイデンティティ)がないと、とらえどころのない自己をもてあまし、瞬間という杭につなぎ留められたような刹那的な生き方しかできなくなります。輪郭線を描くのはもちろん自分自身ですが、いくら自分を深堀りしていっても玉ねぎの皮をむくようなもので、自分の輪郭は見えてきません、輪郭を与えてくれるのは他者、もっと具体的にいえば、他者とのかかわりであり、その最も確実な経路が何らかの役割(広い意味での労働)を与えられ、果たしていくということではないかと思うのです。ところが学校教育でこのような体験を行うことはあまりありません。それが子どもたちの葛藤や退屈の背景になっていると思うのです。
 
その意味でこれからの教育にとって必要なことは、子どもが地域共同体の一員として、他者(必ずしも人間でなく、動植物や自然の場合もある)の福利に貢献する役割(まがいものでない真正の役割)を果たすこと、そしてその役割を果たすことによる他者からの感謝などを通した、自分が他者にとって有用な存在となりうることの感受、行動を通じた「自分は何者であるか」というアイデンティティの獲得といった要素を学校教育の中に意図的に入れ込んでいくことだと考えます。では具体的にどんな役割がかんがえられるでしょうか。これからそれについて考えてみましょう。

人口減少社会の教育 【全2回】 公開日
(その1)『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 2020年4月29日
(その2)『人口減少社会の教育 〜日本が上手に縮んでいくために〜』 2020年5月29日