表現者の肖像 伊藤 清
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人生を変えた出会い

 振り返ると、あのときあの先生に出会っていなければ、と思う先生が何人かいます。私が生まれた北海道の山村は開拓村の一つでした。父が4歳の時に北海道に渡ったと聞いています。父は明治42年に生まれているので大正の時代に入っていたのでしょう。初期の開拓団に遅れること数十年が過ぎており、豊かな入植地はなくなっていたようです。加えて、父はどういうわけか豊かさよりも苦労を意図的に選択するような生き方をしていました。

 私が生まれたのは1952(昭和27)年です。サンフランシスコ平和条約によって日本は独立し、戦後の荒廃から復興へと本格的に舵を切ったころでした。小学校に入学してみるとほとんどの家庭には電気が付いていましたが、うちにはありませんでした。ガスや水道などいわゆる生活インフラというものは全くなかったものですから、生まれたときから毎日がサバイバルでした。電気を使えた里に住む子供たちとの格差を強く感じて育ちました。

 学校に通うのも、険しいけもの道を6キロも歩くので大変でした。大雪や嵐、雨の日などはよく学校を休んだ記憶があります。いきおい、勉強は遅れていきます。そんななかで、私たち一家の事情を理解して粘り強く優しく勉強を教えてくれた先生が何人かいました。

 母がしみじみ口にした言葉を今でもはっきりと覚えています。学校はありがたいな、と。それは、子供が学校に通うことによって勉強を理解し、成長していく姿を喜ばしく感じていたからです。その言葉を思い出すたびに、やはり、あのとき、あの先生に教わっていなければ、と思うのです。中でも、小学校3年生の時の担任(女性)と5、6年を担任(男性)してくださった先生の力がとても大きいと感じます。また、中学校に入学すると教師は教科ごとに異なりますが、当時、私が通った中学ではすべての教科を専門の先生で埋めることはできなかったようです。その中で、とりわけ熱心だったのが英語の先生でした。厳しい先生でしたが、とても分かりやすく、適切な課題を毎日出してくれました。私は、その課題をこなしているうちに英語だけは人並みにできるようになったようです。本来、語学は向いていないのですが、英語だけが人並みになったものだから、自分は英語ができると勘違いしたようです。それが、英語教師につながりました。勘違いが職業を決定づけたわけですが、勘違いしたおかげで職につけたとも言えます。

 大学を卒業してからは、教師の道を一筋に歩いてきましたが模範教師とは相容れないタイプだった私に管理職を勧めた上司が一人だけいました。結局、この上司との出会いも運命的だったように思います。校長となって教職を退職することができました。やはり、人生の重要な節目は人との出会いと力によって導かれたような気がします。

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