I am

No,053

徳山 慎太郎

No.53 徳山 慎太郎

プロフィール

No.53 徳山 慎太郎

徳山 慎太郎

初芝高等学校(現初芝立命館高等学校)普通科卒。高校卒業後、総合学園HALに入学し、ゲームクリエイターを目指すも対人関係が馴染めず、初年度の夏休みの間に中退。そこからはしばらくニートになり、途中で友だちに教えられてパチプロになる。2002年に現在の住所に引越し後、2004年ぐらいから創作の過集中で精神的に疲れてしまう。一度その状態から離れ、一時的に創作を控え、そこから少しずつ知り合ったすべての人から学び続け、いつの間にか創作も再浮上するように再開していて、それ以降は継続的に創作を続けている。

座右の銘

「我有り、ゆえにかく語りき」

「我思う、ゆえに我有り」は「ゆえに我有り」と言うために「思う」が先行しなければならないという事態を無限に回避できず、永遠に存在が成り立たず、存在論も成り立たない事態に陥ります。そうではなく、「我有り」が無媒介に最初に来る。そういう我々が「思う」こともなく無より出づるのであり、時間差である程度の一塊が少し先や遥か先の未来の「思う」になることもあり、その思うことなき内なる偶然性を一塊にして「思う」になるまで精神性を無言語で制御することもでき、そういう訓練ができるのであり、それらの不確定な我々は無限の可能性を含みながら無意識に私の中を別々の仕方で蠢いている。その多感が私の精神現象を形作っている。その多感が多様化し、外部からの偶然性による身体への反応も含んだこの身体を個別の自己環境として含みながら、内なる無限の偶然性からも外からの鋭く狭い偶然性からも自由に、ゆえにその制限を真に自由に引き受けて毎回同様の条件反射をせず、超克するがごとく不快感を愛し、各人各場面それぞれの仕方で人生を制御できるように自由を広大且つ深遠にしていく。それは少しのことでは大きく傷つかない大木のような(ゆえに不確定なものがある程度確定できるような)精神性と言ってよい。本来世の中はそんなに過酷である必要性は全くありませんが、自分自身の人生をそれぞれの仕方で自由に無限にするということを言うときの拠点となるような座右の銘です。

書籍に込めた想い

私を確定させられるいかなる特殊な述語もなく、その都度の私でさえ揺らぎを含みつつ別々に区別できるので「私」ということを数学的に固定された項にすることができず、ゆえにあらゆる数学的記述に私を変えることができない(ある時間に私Aが1人、ある時間に私Bが1人……であって「私が2人」「私Aが2人」「私Bが2人」とは言えない。別の仕方で言えば私を1+1=2と数えることはできず無限のアイデンティティを個別の1人としても総合的な1人としてもそれぞれの仕方で無限に解釈することができる)ということを「I am」と述語なしに留めることで表現しています。

インタビュー

貴著が発行されました、今の気持ちはいかがでしょうか。

作家としてのキャリアを積んでいき、自由意志の冒険をしてみたいです。キャリアそのものがその冒険の証明になっているといいなと思います。自分自身の思考でさえなんらかの前提化に警戒しながら、中庸から大味から薄味まで、方向性が立体的に流線を描いたりジグザグになったり突然途切れたりそれらが組み変わったり全く別ものと言える要素を含めたり(不完全な数学に厳密性を叩きのめすひらがなが含まれるようなことです)そして縮減したりすることで「軌道そのものを深みと捉えるしかなくなる」というような創作をひとまずはしてみたいです。また一つの方向性に特化したなんら総合性のない創作で傑作を書き続けていたいです(傑作を書いてみたいというよりもその冒険の産物としての宝物を作家自身が未来に見にいく過程そのものを楽しみ続けていたいというイメージです)。総合に向かって足し算するよりも可能な限り引き算し、それぞれセパレートな固有性が続編なしに無数の仕方で乱立しているような作家でありたいです。だけど続編も作り、その方向性に特化することを一貫することも含めて一貫性を超え続けていたいです。

今回出版しようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

結婚がきっかけです。出版も一つのプロポーズに使わせていただきました。

どんな方に読んでほしいですか?

誰にでも読んでほしいです。粗探しする人でさえなければ。

座右の一冊

類語大辞典

著:柴田 武、山田 進

「神罪の華」の映像の部分は2004年半ばぐらいには想像でほぼ完成していたのですが、それを言語で再構成するときに使いこなせる語彙が増えないと全く描けないと思ってふと類語大辞典を手に取り、一気に書き上げられたという成功経験がありました。日本語を日本語で翻訳する(自分への言語も自分からの言語もなるべくその通りに伝え、分かち合える)ことでさえ個別具体的なことなのでそれぞれ難しいのに、詩に変えられるだけの魔法の元となる語彙そのものが不足し過ぎている状態をことごとく実感したときでもありました。結果的には自分の言葉が立ち上がっていく日の出のような書物だったと言えます。また新しい日が複数昇るまで何度でも頑張ります。

人生を変えた出会い

出会った全員に影響を受けています。

未来へのメッセージ

広く深さを探って深みに達したものを極めていくという創作を僕はしない(ただし一貫性を超えるために一貫することもある)

広く深さを探って深みに達したものを極めていくという創作(上手くいったものを暗黙にも明示的にも続編化する創作)は僕はしないと思います。そもそもそういう深みを基本的に回避すると思います。もしかしたら一貫性を超える(別の仕方で言えば特定の状態を無価値に感じる)ために一度極めてみて一貫するかもしれないなという程度で、仮にそのように一貫してもそれによる経験だけを精神に蓄え、固有の富としてその後の人生に応用しながら家族とだけ分け合い、だけどそれ以上の一貫性は同様の作物しか得られないと判断してすぐに手放すのです(これは作物放棄ではなくその畑に縛られることの放棄であり、あくまで一つの畑に留まらないという考えであり、その畑にも戻ってくることがあるということに過ぎません)。ほどほどに深く果てしなく広げていくことそのものが相対的にどのようにでも深い(オリンピックのような一つの直線で奥であればあるほど深いという判断が外部からできなくなる=そういう直線から外れた軌道たちが相対的に別々の閉じられたそこでしか理解できないことを多分に含む価値であり、その長いものに巻かれ、分かち合えるのは家族だけであり、聖なるものも邪悪なものも何もないのですがこれですら表象的な軌道の話に過ぎず、蓄えられていく経験は真にお互いに果てしなく分かち合える)というものを少なくとも僕は目指します。大風呂敷に縛られたくないので控えめに言っておきますが、少なくともその方が広大な立体性(作家自身にとってだけではなく、誰の目にも明らかな立体性)がキャリアに伴うはずなんです。ある程度しか成功せず、それ以上には失敗するかもしれませんが特定の限界は超えているでしょう。一つの深さを突き詰めてそこだけで創作すると頭打ちのところで多様性が深刻に手狭になります。アスリートの訓練は美しいと思いますが、オリンピックだけでは限界に留まってしまうわけです(当然これはアスリート批判ではありません。アスリートはみんな違います。それぞれ違う1人です。その1人は時間ごとにも違う1人です。時間ごとに異なるアイデンティティが1人1人……その総合として1人です。アスリートという大きな主語ではなく、単一の名前を誇りある総合にするアスリートを僕は信じます。ただしそういうアスリートだけが素晴らしいとは全く思っていません。むしろ全く逆に、素晴らしさを抱えつつも世俗的な価値に移動できないことであまりにももったいないのではないかなと思っています)。現時点で僕の創作多様性のようなものは初歩中の初歩です。「I am」を書いてから僕は十分に成長したと思います。創作は創作の中だけで洗練されるなどとは夢にも思っていないので、今後その多様性をほどほどに深く果てしなくあらゆる軌道で探っていき、誰も知らない経験を蓄えていきたいと思います。そのことで僕たち夫婦の生活が豊かになったり、読者の誰かが救われるようなことがあったらいいなあと思います。