クラシック アホラシー(文庫版)

No,35

神沼遼太郎

著者No,035 神沼遼太郎

作品紹介

著者No,035 神沼遼太郎

クラシック アホラシー(文庫版)

神沼遼太郎

平林直哉氏の著書に『クラシック100バカ』という、何とも過激な本がある。
文字通りクラシック音楽界に巣食う古今東西のバカどもを容赦なく糾弾していて、読み手としては何とも痛快な反面、時折自分のことを言われているような気がして背筋が寒くなる。
この本は「盤鬼」と恐れられるほど古今のレコード・CDに精通されるとともに、『クラシックプレス』の編集などを通じて業界の裏まで知り尽くす筆者だからこそ可能となったものであるが、それに対して「僕」自身は、年に何枚かCDやDVDを買い、テレビやFMでクラシック番組を録画・録音し、コンサートにも何回か足を運ぶ程度のごく普通?のクラシック・ファン。そんな僕がこの本に脱帽したのは当たり前だが、そこでクラシック音楽界の「アホ」な人や物を探してみると、これがいる、いる。
クラシック音楽は世界最高の芸術だと信じているアホ、楽譜が読めるのを自慢するアホ、クラシックなんて誰が演奏しても同じだと信じているアホ、チケットの値段やエピソードや顔で演奏家を選ぶアホ、演奏後いつまでも拍手を続けるアホ……。
これはぜひ一度まとめておかねばならぬ!
強い(?)問題意識から筆をとり、クラシック業界に蔓延る「アホ」たちを一刀両断!
「クラシックってなにがおもしろいの?」
「どう聞けばいいの?」
――クラシック初心者のそんな疑問もたちまち解消、目からウロコの痛快評論。

プロフィール

著者No,035 神沼遼太郎

神沼遼太郎

1962年大阪生れ。1990〜98年にかけて『音楽現代』(芸術現代社)に「ニュー・ヨーク便り」などを断続的に連載、2006〜07年にかけて『クラシック・ジャーナル』(アルファベータ社)に「知られざるアメリカ音楽発展史――それは1940年代から始まった」を連載。
その他『WAVE 31 カルロス・クライバー』(ペヨトル工房)、『グランド・オペラ』(音楽之友社)、『CDジャーナル』(音楽出版社)、『マリ・クレール』(中央公論社(当時))などに執筆歴あり。
現在2つのウェブサイト、
「昨日のコンサート、どうだった?」
http://www.geocities.jp/lastnightconcert/
及び
「スティーヴン・ソンドハイム倶楽部」
http://www.ne.jp/asahi/sondheim/club/)を運営。

座右の銘

微笑は笑いの極致

ある雑誌で見つけて気に入り、高校の卒業アルバムに残した一言です。元々笑い上戸なので、大したことのないネタでも大笑いして周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うことがたびたびあり、自分への戒めとしています。

インタビュー

『クラシックアホラシー(文庫版)』が刊行されました。今のお気持ちはいかがでしょうか。

素直に嬉しいです。

今回出版しようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

そもそも最初に本書を出版しようと思ったきっかけについては、単行本のまえがきとあとがきをご覧下さい。
「クラシックアホラシー」は最初単行本で刊行され、次に新書となりました。そして、昨年文庫化のお話を頂戴しました。最初に刊行してから10年以上経っていましたが、その間世界のどこかで買って読んで下さる方がいらっしゃらないと、このような話はなかったはずです。これからさらに現れるであろう、未来の読者のみなさまのことを考え、文庫化をお願いすることにしました。

どんな方に読んでほしいですか?

これも単行本のあとがきに書きましたが、クラシック音楽が好きな方々にはもちろんですが、むしろ嫌いな方やそもそも音楽に関心のない方にこそ、読んでいただきたいと思います。

作品紹介

クラシック アホラシー
≪2刷出来≫

「楽譜を読めるのを自慢するアホ」「テレビに出る演奏家やCDを出す演奏家が一流と信じるアホ」「演奏中の居眠りを咎めるアホ」等々、つい自分の胸に手を当ててしまいたくなる批評集。著者の厳しい目は、聴衆ばかりではなく、レコード会社、マスコミにまで及ぶが、爽やかなのは自らを顧みる視点を兼ね備えている点。読了時には、きっとクラシック音楽好きになっているはずです。

かなり変だぞ「クラシック通」
≪3刷出来≫

1962年大阪生まれ。1990~98年にかけて『音楽現代』(芸術現代社)に「ニュー・ヨーク便り」などを断続的に連載、2006~07年にかけて『クラシック・ジャーナル』(アルファベータ社)に「知られざるアメリカ音楽発展史─それは1940年代から始まった」を連載。現在2つのウェブサイトを運営。

座右の一冊

なんたってクラシック―ぼくの一方的音楽宣言 (朝日文庫)

著:砂川 しげひさ

文章と漫画のハイブリッド

ここが魅力

クラシック音楽にハマって数年経った大学時代に出会い、衝撃を受けました。これまでに出会ったクラシック音楽に関する本は、すべて音楽学者や音楽評論家の記した良くも悪しくも「真面目な」本ばかりでした。しかし、漫画家の砂川しげひさ氏が書いたこの本は、クラシック音楽を語るのに冗談やユーモアを交えてもいいのだ、という至極当たり前のことに気付かせてくれました。文章と漫画のハイブリッド、というスタイルも実にカッコいい。

しかし、その一方で著者は、学者や評論家の誰よりも純粋にクラシック音楽を愛し、他のジャンルの音楽には一顧だにしません。漫画の見た目や文章の面白さの裏には、著者のクラシック音楽に対する純粋な愛情があふれています。実は、そこについて私は著者に同意できません。
その意味でこの本は、私にとって「座右の一冊」であるとともに「打倒すべき一冊」としても、ずっと頭の中に残っていたのです。

「アホラシー」を書く直接のきっかけになったのは平林直哉「クラシック100バカ」でしたが、この本に出会わなければ、そもそもクラシック音楽を題材に本を書こうという発想自体が生まれなかったかもしれません。

コラム

その1 新型コロナウイルスのアホ(その1)

新型コロナウイルスのアホ(その1)

 今新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。感染の拡大、死者の増加といったデータが日々更新され、社会や経済に深刻な影響を与えている様子が連日報道されている。
 音楽界も例外ではない。世界中のオーケストラや演奏家が活動を停止し、劇場や音楽ホールは閉鎖を余儀なくされている。わが国でも、2月25日に政府が大型イベントの自粛を要請すると、それ以降に予定されていた公演が次々と中止・延期になった。しかも再開の目途は全く立っていない。私事で恐縮だが、自分が多少なりとも関わっていたいくつかの演奏会も延期となった。
 ただ、そんな異常事態に直面しても、なお諦めずに音楽を届けようとする動きが生まれているのには勇気づけられる。ベルリン・フィルやメトロポリタン歌劇場など、既に独自の配信事業を実施している団体はその内容を充実させているし、新たにネット配信に挑戦している音楽家たちも少なくない。
 例えばびわ湖ホールは、3月7,8日に上演予定であったワーグナー「神々の黄昏」を無観客でYouTubeに生中継した。私は7日に観たが、カメラ1台で舞台全体を映し、休憩中は劇場内の時間表示板にカメラを移動させ、開演前になるとまた元に戻すという、極めて「原始的」なやり方ではあったが、最も多いときで1万1千人以上が視聴していた。とてもホールに入りきらない数である。
 本番はもちろんだが、カーテンコールまで端折らずにやっているのを観ていると、目の前にお客さんがいるのと全く同じつもりで上演するのだ、という心意気が伝わってきて、何とも清々しい気分になったものである。
 その後も阪哲朗指揮山形交響楽団や井上道義指揮大阪フィルが、クラシック専門ストリーミングサービスのCURTAIN CALLを使って定期演奏会を配信するなど、ぼちぼちではあるがネットを活用して演奏を届ける試みが芽生えつつあるように見えた。
 しかし、その後も感染は収まるどころかむしろ拡大する傾向にあり、そもそもオーケストラが舞台上に集まって演奏すること自体が新たな感染拡大につながりかねない、という事態にまでなってしまった。4月の定期公演を無観客で演奏し、FM生放送とテレビ収録を予定していたNHK交響楽団は、公演自体の中止を決定した。団員や関係者の無念を思うと胸が痛む。
 それでも音楽家たちは諦めていない。ネットを活用して音楽を演奏する方法が他にないか、様々な模索が続けられている。例えば、新日本フィルハーモニー交響楽団の楽員たちはTwitter上に楽員チャンネルを設け、楽員が自宅で演奏した「パプリカ」を、ネット上でまとめて発信することで反響を呼んだし、フランス国立管弦楽団も同様のやり方でYouTubeにラヴェル「ボレロ」のダイジェスト版を演奏してみせた。このやり方を発展させれば、「1万人の第九」ならぬ「1億人の第九」だって可能かもしれない(えっ、ネット回線がパンクする?)。
 一方で「今は私たちの出番ではない」と沈黙している音楽家たちも少なくない。気持はわかるが、敢えてその考え方は間違っていると言いたい。なぜなら、今私たちには音楽が必要だからである。
 わが国では、2011年の東日本大震災の直後にも、海外から来日する音楽家たちの多くがキャンセルしたり、国内の公演の一部も休止したりといった事態に直面したことがあった。あのとき多くの音楽家たちはひとまず活動を控え、「音楽の出番です」と言われるまで待つという姿勢を取った。それでどうなったか?その後誰かが「そろそろ音楽の出番ですよ」と言ってくれただろうか?  あのときわかったのは、誰もそんなことは言わないということである。音楽家が自ら判断して「音楽を演奏し続ける」と決意して行動しない限り、音楽活動は復活しないのである。
 今はあのときより厳しい状況かもしれない。しかし、はっきりしているのは、みな音楽を必要としているということだ。それを信じて、ぜひネットを活用して、演奏活動を続けるための様々な工夫を試みてほしい。技術的な問題や「やっぱり目の前に聴く人がいないとやる気が出ない」といった心配もよくわかるが、いろいろ試して失敗しながら、新しい音楽演奏のスタイルを創造する絶好のチャンスだと、前向きに捉えてほしい。
 何と言っても、インターネットに新型コロナウイルスが感染することはないのだから(別の種類のウイルスに注意する必要はあるが)。  蛇足ながら、いい機会なので、ネット上でこんなのが聴けるといいなあという妄想をいくつか書いておきたい。

〇ソーシャル・ディスタンス・ストリング・カルテット
 感染拡大を防ぐため、いわゆる「三密」の状態を避けることが繰り返し求められている。そこで弦楽四重奏団のみなさんに、舞台上でどこまで離れて演奏が成り立つものか、実験してほしい。例えば4人が横1列に並び、奏者の間の距離を1m取ったらどうなるか?  歌手とピアニストや合唱団でも同じようなアプローチができそう。

〇音楽家の練習方法公開
 多くの子どもたちも、休校のために自宅で過ごさなければならない時間が増えている。中には楽器を習っている子たちもたくさんいる。彼らのために、音楽家のみなさんから普段の練習の様子を紹介したり、楽器上達のコツをアドバイスしたり、といったことができないだろうか。Jリーガーなど一部のスポーツ選手たちがそんな動画を公開しているが、大いに参考になるはず。

〇演奏の舞台裏、見せます
 例えばオーケストラでヴァイオリンの最前列に座っている奏者と最後列に座っている奏者とでは、演奏のタイミングがわずかにずれるそうだ。そこを彼らは調整して音楽を創り上げている。
 でも、それってホンマかいな?確かめてみましょう。団員全員が乗ると過密になるので、コンサートマスターと最後列の奏者1人だけ座ってもらって、各奏者にカメラとマイクを付けて、それぞれの位置からどのように演奏が聴こえるか?かつてNHKで話題になった「大科学実験」みたいで面白そう。
 音楽家の間では常識だけど聴衆側は意外と知らない、そんな演奏の内幕を覗き見られるような動画も、今だったら作れると思うのだが。

その2 新型コロナウイルスのアホ(その2)

新型コロナウイルスのアホ(その2)

 ここまでは音楽家のみなさんを話題に書いてみた。その一方で、新型コロナウイルスの影響をもろに受けているという意味では、聴衆も同じである。多くの公演が中止になったことで、チケットの払い戻しがあちこちで発生することとなった。
 私もそれほど多いわけではないが、キャンセルになったチケットの払い戻しをして、行き付けの飲み屋の応援に回していた。それで気が付いたのは、演奏団体やチケットのシステムによって手続がバラバラであるということだ。
 これは知人から聞いた話だが、あるシステムで購入したチケットは、発券した店でないと払い戻しできないことになっているそうだ。たまたま旅行先で時間のあるときに発券してしまったら、またその店へ行かねばならない。
 私はさすがにそこまでの目に逢ったことはないが、多少面倒な経験をしたことがあった。私は日頃から公演日直前まで発券しないことが多いのだが、払い戻しの際にはその方が便利である。サイト上の手続だけで済むからである。
 と思っていたら、ある別のシステムでは、払い戻しを受けるためにまずチケットの発券をせよ、というルールになっていた。正直訳がわからなかったが、ルールに従って手続をするために、お店の機械とレジとの間を行ったり来たりする羽目になった。
 もちろん手間なのは聴衆側だけではない。演奏団体、ホール、劇場、音楽事務所など(以下「音楽事業者」と記す)にも払い戻し業務が膨大な量となってのしかかっている。しかも、自分たちではどうにもできない理由で、自分たちの収入を減らすために忙しくなっているのだから、これほどやりきれないことはない。
 既に多くの音楽事業者の経営は急速に悪化しており、政府、自治体、助成団体などが支援策を検討し、早くも実施されているものもある。事業者側も寄付募集など、公演以外の手段で支援を集めようと必死である。しかし、いつまでどのくらいの支援が必要なのか、まだまだ見通せる状況にない。
 こんなときに一聴衆として何かできることはないやろか?とあれこれ考えた末、ハタと思い付いたことがある。

 それは「払い戻しをしない」ことである。

 確かに、行く予定にしていた公演が取り止めになれば、私たちにはチケットの払い戻しを受ける権利がある。しかし、そのために私たちにも手間暇がかかるし、音楽事業者の負担も増える。そして彼らの収入が減って経営が悪化する。
 それなら、私たちが払い戻しをしなければ、事業者側の事務負担が軽減し、その分他の仕事へ注力することができる。しかも手元に資金が残る。  そんなもん当たり前やんか、と言われればそれまでだ。しかし、わかっていても、払い戻しをしないのは一種の禁じ手である。少なくとも音楽事業者の側から聴衆に向かって言い出せることではない。
 だからこそ、聴衆の側から行動することに意味がある。もちろん、たとえ緊急事態宣言が出ても誰にも強制できる話ではないし、あくまで自発的な行動に過ぎない。しかしこれこそ、今までたくさんの素晴らしい音楽を通して私たちを幸せな気分にしてくれた音楽事業者のみなさんに対して、私たち聴衆にできる、ささやかだが最も効果的な支援ではないだろうか。
 そんなら寄付すればええやんか、と言われるかもしれない。もちろんそれも否定しないし、税金控除を受けたい人はそうすればよい。その一方で、払い戻ししないことは実質寄付と同じ意味も持つ。しかも、わざわざ新たな手続を取る必要がない、つまり何もしなくていいのだから、こんなに楽にできる寄付はない。

 というわけで、私はここに「払い戻ししま宣言」をすることにします。

 もう一つ私たちにできることがある。今でも数は少ないながら夏以降の公演の前売りが行われている。行きたいものがあれば、お財布と相談の上、この際購入してしまおう。もちろんその公演だって延期・中止になるかもしれないが、中止になっても払い戻しをしなければ、さっきと同じ支援になる。

 というわけで、私はここに「前売り買います宣言」もすることにします。

(ちなみに、行き付けの飲み屋の応援も、細心の注意を払いながら続けます。)

 そういった行動を積み重ねながら、晴れて公演が再開できる日が来るまで、とにもかくにも音楽事業者のみなさんの経営が維持され、音楽家のみなさんの生活が守られることを切に願うばかりである。

その3 新型コロナウイルスのアホ(その3)

新型コロナウイルスのアホ(その3)

 新型コロナウイルス感染症への対応が長期化する中、音楽家や音楽事業に関わる方々の苦闘も続いている。多くの音楽家たちがネット配信で音楽を届ける努力を続け、音楽団体は寄付など支援の呼び掛けを必死で行っている。
 聴衆も含め、音楽に関わる全ての人々が、1日も早い感染症の終息を願っている。そして、以前のように劇場やホールで毎日演奏会、公演が開かれ、多くの聴衆が集まることができるようになることを願っている。
 もちろん私だってそうなってほしいと熱望している。だが同時に、少し冷めた目で現状を見つめ、将来を展望することも必要だとの思いも日々強くなっている。

 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が5月1日に打ち出した提言では、感染の状況が厳しい地域における「徹底した行動の変化」を引き続き求めるとともに、新たな感染者が限定的になっている地域では、再び感染が拡大しないよう長丁場に備えて、感染拡大を予防する「新しい生活様式」に移っていく必要があるとしている。
 同月4日には「新しい生活様式」の具体的な実践例が示され、①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗いを基本に、「娯楽、スポーツ等」については、「狭い部屋での長居は無用」「歌や応援は十分な距離かオンライン」などとされている。
 多くの有識者も、今般の感染症との闘いは長期戦(早くて1年、長ければ2,3年)になること、そして必ず訪れる終息後の世界は、以前とは全く異なる新しい世界になると指摘している。これは単なる予言と言うより、ほぼ確実に起こることだと思っておくべきだ。
 音楽家のみなさんの当面の生活や、音楽団体の当面の経営維持は喫緊の課題として重要なのは当然だが、終息後のことを考えると、より根本的な変革が待っており、それに対する備えを今から考えておかねばならない。
 すなわち、「新しい生活様式」に沿った音楽活動って何やろか?ということである。

 例えば、ピアノの独奏とか数人の室内楽程度の演奏会であれば、比較的早めに再開できるかもしれない。しかし、オーケストラの演奏会やオペラ、バレエといった舞台芸術の公演については、大半の人たちに受け入れられる感染防止策を講じない限り、おそらく再開は難しい。その意味では、以前と同じような公演スタイルでは、いくらやりたくでも社会の理解が得られなくなる恐れがある。
 先日知り合いからこんなシミュレーションを聞かされてハッとした。例えばサントリーホールでオーケストラの演奏会を再開しようとしたら、奏者間の距離を十分取るために、ステージには弦楽器奏者のみが座り、管楽器や打楽器の奏者は舞台後方の座席(Pブロック)を使わなければならないかもしれない、というのだ。
 ここから妄想を発展させていくと、合唱付の曲はステージの左右の座席(LAブロックとRAブロック)を使うことになるだろう。
 他のホールはどうするか?東京文化会館のようにステージの後方や左右に座席がないところは、オペラなどで使うオケピットの部分を使ってできるだけステージを広くするしかないだろう。そもそもオケピットのないホールであれば、ステージを前方に拡張して、その分客席をつぶす改修工事が必要かもしれない。
 間隔を開けねばならないのは聴衆も同じである。一部の映画館で1つ置きに席に座るようチケットを売っているところがあったが、劇場、ホールでも同じような対応を求められる可能性は高い。となると、せっかく再開できても売れるチケットの数は大幅に少なくなり、相当な収入減を覚悟しなければならない。

 そこでふと思い出したことがあった。お年寄りや障害があって自由に旅行できない人たちが、ぬいぐるみを家族などに預け、自分の代わりに旅行へ行ってもらうというツアーがある。また、図書館で子供たちの好きなぬいぐるみが自分の代わりにお泊りするというイベントも各地で行われている。
 これらの例にヒントを得れば、空けた席にスマホやタブレットを置いてウェブ会議アプリでつなぎ、本人たちは家にいながらホールの演奏を聴けるようなサービスを有料で売り出してはどうだろうか。むき出しのスマホやタブレットが並ぶのが殺風景だと言うなら、カメラとマイク付のぬいぐるみを開発し、それをオケが独自ブランド商品として販売すればよい。
 もしこのやり方がうまくいけば、実際に演奏会へ行く回数は減るかもしれないが、生の演奏に触れる機会は飛躍的に拡大する。世界中の聴衆に自分たちの演奏を聴いてもらうことができるし、複数のぬいぐるみを持てば、同じ演奏を違った席から同時に聴けるし、行きたい演奏会が重なっても両方自宅で聴ける?(さすがに頭の中が混乱するか?)

 オペラの合唱やバレエの群舞についても、例えば人間と人形やロボットが交互に立つことで密集を避けるといった工夫が求められるかもしれないし、演出上も歌手や踊り手たちがなるべく接触しないように方向転換せざるを得ないかもしれない。
 ただ、そんなことしたらそもそもオペラやバレエは成り立たないという反発は当然生まれるだろう。管楽器奏者やオペラ歌手がマスクを着けながら演奏することはありえないし、バレエダンサーたちが密着せずしてパ・ド・ドゥは成り立たない。
 しかし、音楽文化をこれからも守り、発展させてゆくためには、パンデミック終息後の新しい世界に対応できなければならない。これは避けて通れないことである。音楽に関わる全ての人たちがこの問題を考え、試行錯誤が始まることを期待する。そして、私を含めた聴衆も「新しい行動様式」を模索していかねばならない。

その4 新型コロナウイルスのアホ(その4)

新型コロナウイルスのアホ(その4)

 新型コロナウイルス感染症はまだまだ収まる気配がない。欧米では第3派とも言われる再流行に襲われ、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルが今シーズンの全公演を中止とか、ミラノ・スカラ座やボリショイ劇場で集団感染とか、暗い話題しか入ってこない。
我が国の感染者数も減りそうでなかなか減らない。個々人の感染防止策はそれなりに徹底されている一方で、GoToキャンペーン始め経済を立て直すための政策で人の移動が活発化しているのだから、この状況は想定内とも言える。
 演奏会はホールの定員の半分程度を入れた開催が広がってきており、今のところクラシックの演奏会場からクラスターが発生したという話は聞かない。飛沫拡散がより心配されるオペラ公演も徐々に再開の動きが出てきた。井上道義総監督・野田秀樹演出の「フィガロの結婚~庭師は見た!~」のように、初演時と同じ「超密舞台」をそのまま再演した例もある。
そして、9月25日の第43回新型コロナウイルス感染症対策本部では、イベント開催における人数制限が緩和され、クラシックの演奏会などは100%収容も可能とされた。先の「フィガロ」の東京芸術劇場における公演もこれを見越したかのように全席販売、久々に前後左右にお客さんがいる緊張感を味わった。
 もちろん、全てのホールや主催者が、これで一気にチケット販売数を大幅に増やすわけにはいかないだろうが、一歩ずつ前進しているようには見える。

 その一方で、再開に向けてまだ見通しが立たない公演もある。とにかく飛沫が飛ぶ合唱や、演奏者と聴衆とがやり取りしながら進めるワークショップ型のものは難しい。 前者については、東京混声合唱団がハミング歌唱による新作を3人の作曲家に委嘱し、譜面と演奏の動画を公開している。誰でも歌えるように書かれた上田真樹と信長貴富に対し、新しい世界を切り開こうとする池辺晋一郎。正に窮余の一策という感があるが、何とかしたいという意気込みは十分伝わってくる。

 後者についても、最近意欲的な試みに立ち会うことができた。10月16日、府中の森芸術劇場ウィーンホールで行われた「音楽で脳トレ!!Music in Educationオンラインワークショップ」である。NPOくらしに音楽プロジェクト事務局長で、ニューヨーク・フィルの教育部門と協働で「ティーチング・アーティスト」と呼ばれる音楽教育の専門家を我が国に紹介するなど、先進的なワークショップの実践や人材育成で活躍する砂田和道氏が総合プロデュースし、東京シンフォニエッタのヴァイオリン奏者梅原真希子さん、藝大フィルハーモニア管弦楽団の植村理一さんなど、5人の奏者による対話型鑑賞プログラムである。
 と言っても、ホールは無観客である。聴衆は事前に電子メールで申し込み、受付確認メールで送られてくる情報に従ってホールの演奏をPCやスマホで視聴する。通常のオンライン配信と異なるのは、公演開始前に性別、年齢層など参加者の属性に関する簡単なアンケートに答え、演奏会の途中でも様々な質問が投げかけられることである。
 プログラムはナビゲーターを務める砂田氏のプレトークから始まる。プログラムの狙いや進め方についての説明があり、演奏の前にはどこに注目して聴くか、演奏の後には感じたこと、気付いたことを問われる。聴衆はただ演奏を受け身で聴くのでなく、リズム、メロディ、音程など自分なりの注目点や狙いを定めて主体的にプログラムに関わることを求められる。全ての演奏が終わった後には、自由に感想を送ることもできる。
 この日のプログラムは全体で1時間ほどだったが、これで終わりではない。事前に収録した別の曲が10月24日~27日にかけてオンデマンドで配信された。10分程度の動画だが、ここでもただ視聴するだけでなくアンケートに回答することが求められる。
 なぜこんなややこしいことをするのかと言うと、後のオンデマンド配信には16日のライブ配信に参加した人もしなかった人も聴けるので、双方の回答を比較できる。すると、ワークショップにどのような効果があったかを評価できるはずである。これがこのプログラムの最終的な目標ということになる。

 こう書くと何だか科学実験の場に立ち会うようなイメージになるが、実際に参加してみるとそんな堅苦しいものでは全くない。まず5人の奏者たち(ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、ホルン、ファゴット)が、もともと弦楽合奏や鍵盤楽器の曲を色彩豊かなアンサンブルに変身させていることに驚く。演奏として文句なしに楽しめるのである。
 そこに、多少ぎこちなさを残しながらも、砂田氏と奏者たちとの間で対話があり、彼らから視聴者への問いかけがあり、視聴者の回答に対して彼らも反応する。つまり、言葉の上でも相当濃密なコミュニケーションが成り立っている。「音楽で脳トレ!!」のタイトルそのままに、視聴者は彼らの解説や質問を脳で咀嚼しながら音楽を聴くことになる。 さらに、2回とも工夫を凝らしたカメラワークで、奏者たちの演奏ぶりや表情が観る者に迫ってくる。生配信でもオンデマンド配信でも、会場へ吸い込まれていくようなライブ感が半端ない。砂田氏と演奏者たちを多くのスタッフが支えていることで、このような充実したプログラムが成り立っているのである。

 今回は限られた公演時間なので、ワークショップとして取り上げる内容はかなり欲張ったものになった。今後例えばリズム、音程、メロディ、ハーモニー、音色など、いくつかのテーマごとにワークショップのシリーズを組めば、参加者は主体的に音楽へアプローチし、演奏から深い学びや気付きを得ることができるに違いない。クラシックの演奏会の新しいスタイルを切り開く可能性を感じさせる体験だった。

 今後このような対話型鑑賞プログラムがもっと広がることを期待するが、そのためには音楽ホール側に大きな変革を迫らねばならない。それは、ホール内のネット環境である。これまでは携帯電話の着信音などを防ぐために、いかに通信を遮断するかに力を注いできたホールが、全く逆方向の対応を求められるのである。
ちなみに、今回のプログラムを実現させるため、主催者はわざわざホール内にネット回線を引き込む工事をして、wifiの器具も持ち込んだのだそうだ。
 現状ではこうするしかなかったのだろう。しかし、今後通常の演奏会でも、収益確保や新たな聴衆開拓のために、聴衆を入れながらもオンライン配信とハイブリッドで実施するスタイルが珍しくなりつつある。このような演奏者側の動きをホール側はどう見ているのだろうか?私は、近いうちにネット環境の有無が音楽ホールや劇場の死活問題になると見ているが、大袈裟やろか?

その5 新型コロナウイルスのアホ(その5)

新型コロナウイルスのアホ(その5)

 2年近く世界中に猛威を振るってきた新型コロナウイルスだが、医療従事者による懸命の治療やワクチンの普及などのおかげで、ようやく終息に向かっているように見える。わが国では10月24日で緊急事態宣言が終了し、徐々に日常生活が戻りつつある。
 東京都のイベントへの入場制限も段階的に緩和され、先日観てきた新国立劇場の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」では、久しぶりにほぼ満席の中で公演が実施されていた。演奏家を始め音楽に関わる人々も「やっとここまで来たか」とホッとしておられるかもしれない。
 もちろん最近のオミクロン株への対応で、緩和されかけた入国制限が再び厳しくなり、海外からの音楽家招へいに再び影響が出始めるなど、まだまだ予断は許さない。

 その一方で、忘れてはいけないことがある。それは東京オリンピック・パラリンピックの開催をめぐってアスリートたちが経験したことである。
 ご承知の通り東京オリパラは2020年開催の予定が延期され、今年の7月から8月にかけて、つまり緊急事態宣言中で最も感染状況が深刻な時期に開催された。
 結果的にコロナ禍での開催ということになったわけだが、昨年の延期決定以降、開催の是非をめぐる議論が活発となり、今年の春には中止を求める声が大きくなった。政党の中でも明確に中止を主張するところが出てきたし、政府や東京都、組織委員会に対して中止を要望する声も多く寄せられた。
 そしてこれらの反対の声が、ついに一人のアスリートへ集中的に向けられるに至った。競泳選手で白血病から復活して東京オリンピックへの出場を目指していた池江璃花子選手に対して、出場辞退や中止の声をあげてほしい、との要望が殺到した。これに対して池江選手は、5月初めに自らの苦しい胸の内を吐露せざるを得ない状況に追い込まれたのである。
 もちろんこれまでもオリンピックを商業主義的イベントで真にアスリートのためのイベントであるとは言えない、などといった理由で開催に反対する意見はあった。2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」では、オリンピックがいかに政治に利用されたり翻弄されたりしてきたかを私たちに思い出させてくれた。
 しかし、大多数の国民はこれまで純粋にオリパラをアスリートたちにとって最高の舞台だと信じ、その開催を支持してきた。
 ところが、新型コロナウイルスはこのような状況をも一変させた。誰もが「スポーツと命とどちらが大事か?」という問いに直面した。そして「当然命が大事だ」と考える人たちがオリパラ中止の声をあげ、その声を直接アスリートたちに伝えたのである。池江選手への要望はその象徴的なケースであったと言える。
 アスリートたちにとって、これは今まで経験したことのない試練だったはずである。自分がやりたくてやってきたスポーツが、命と比較されて二者択一を迫られたのである。
 彼らはその問いにどう答えたか?少なくとも私が知る限り「スポーツより命が大事」という理由でオリパラを辞退した選手たちはほとんどいなかったはずである。現に選手たちは出場したのだが、彼らの心境がこれまでのオリパラ出場とは相当違ったものであったことは間違いない。
 すなわち、全てのアスリートが池江選手のように「自分は何のためにスポーツをするのか?命の大事さとスポーツをすることとの間にどう折り合いをつけるのか?」について悩み苦しみ、自分なりの答えを用意した上でオリパラに臨んだのである。
 これはオリパラに限ったことでなく、甲子園の高校野球大会やプロ野球、サッカーのJリーグなど、プロアマ問わず全てのアスリートたちがみな同じような「心の整理」をつけた上で競技したはずである。
 この経験は間違いなく、アスリートたちを強くした。もはや何となく「自分はこのスポーツが好きだから」という軽い気持でスポーツイベントに臨むことは許されなくなった。いつどこで誰から「あなたが出場するスポーツイベントは中止すべきである」と言われても、自分の考えをしっかり主張できるようになったのである。

 演奏家を始め音楽に関係する人たち、そして私を含む音楽を愛する人たちは、東京オリパラをめぐってアスリートたちが体験したことを、他山の石としなければならない。
 音楽を含む文化芸術の世界でも、いつ何時似たような事態が起こらないとも限らない。「音楽と命とどちらが大事か?」と問われたときに、正面から答えられる準備をしておかねばならない。
 新国の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のプログラムで、大野和士芸術監督は、ザックスの歌を引用して「人生の春に美しい歌を書くことは誰にでもできる。しかし、秋も過ぎ冬が来て、喧騒や戦いに巻き込まれたその時に美しい歌を書ける人こそ本当のマイスターだ」というフレーズを世界中の人たちに投げかけるべく演奏したい、と並々ならぬ意気込みを私たちに訴えかけていた。
 全くその通りだと思うし、「戦い」のうち最も厳しいものが「音楽と命とどちらが大事か?」と問われることだろう。それでも、美しい歌を書き、奏でるのが音楽家の存在意義だし、そんな音楽家たちを私たち聴衆も、揺るぎない信念をもって支持し続けなければならない。

人生を変えた出会い

カルロス・クライバー。この指揮者に出会わなければ、私はここまでクラシック音楽にのめり込むことはなかったでしょうし、私の人生自体がもっと味気ないものになっていたかもしれません。

大学時代にブラームス「交響曲第4番」の演奏をFMで聴いて衝撃を受けました。冒頭から聴く者を自分の世界へ引っ張り込む。音楽に陶酔するとはこういうことか、と実感しました。天下のウィーン・フィルをここまで本気にさせ、必死に弾かせる指揮者はなかなかいません。

しかも、指揮姿が実に美しく、カッコいい。何とかして生の演奏を聴こうと、あれこれ手を尽くしました。幸運にも恵まれ、メトロポリタン歌劇場の「薔薇の騎士」7回公演を含め、何とか二桁の歌劇、演奏会へ行くことができました。

でも一番印象に残っているのは、大学卒業前のヨーロッパ旅行のとき。バイエルン国立歌劇場で行われた、バイエルン国立管弦楽団の演奏会。現地で立ち見席を入手し、初めて生でクライバーの指揮を観ながら、あのブラームスの4番を聴くことができました。

指揮ぶりも演奏も素晴らしかったのですが、もっと素晴らしかったのが聴衆。演奏が終わってもしばらくシーンとしているのです。真に音楽を愛する者たちが、ひいきの演奏家に対して示した、最高の敬愛のメッセージ。

クライバーを通じて私は音楽の楽しさと奥深さを知り、彼を慕う聴衆と出会ったことで、音楽を愛することはどういうことか、を知ることができました。