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意識のゆりかご─意識はどこで生まれるのか 〜 「意識」と「認識の過程」(その1)

西園 孝

県立浦和高校卒、山形大学医学部卒、三岳荘小松崎病院非常勤

好きな曲:Hey! Say! Jump 「Dear My Lover」
好きな俳優:吉沢亮
カラオケでうまく歌いたい曲:Mrs. Green Apple 「ライラック」

私はハゲカッパ、お茶の水はかせ、などといわれます。川に入るようスタッフに指示されるのはこのため。

意識のゆりかご─意識はどこで生まれるのか 〜 「意識」と「認識の過程」(その1)

 意識とは何かということについてですが、意識という現象は現在まだ説明できていません。もしも脳の機能的な側面とその局在とが、すべて解明されたとしても、意識とは何かということの答えにはなっていないように思います。意識とは何かという議論よりも、最近は、AI(人工知能)ロボットが、完全に人間と同じ行動、会話、判断などをしたとして、その場合そのロボットに意識があるといえるのか、またAIが自我に目覚め、まるで意識をもっているかのように自律的に機能しはじめたらどうなってしまうのかなどの話題のほうがよくあると思います。意識は、脳の活動、つまりニューロンの活動によって生じるということは明らかです。しかしニューロンの活動のすべてが意識を引き起こすわけではなく、どのようなニューロン活動が意識と関係しているのかということもまだわかっていません。


 意識というのは、その本人にしかわからない固有の現象で、意識の内容はその人の内観報告からしかわかりません。今、意識レベルのことをいっているのではありませんが、もちろん私達は覚醒している人を見ると、この人は意識をもっていると考えます。ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet カリフォルニア大学サンフランシスコ校。生物学者)によると、私達は常に何かに対してアウェアネス(awareness)、気付きをもっているということで、これが「意識」(1)がある、「意識」をもっている、ということの説明となっていると考えます。この、何かに対してアウェアネスをもっていることというのは、何かを「認識」しているという表現がなされる場合もありますが、一般に、認識していると考えられる状態と、認識していることが意識されているということとは、ちがうことと考える必要があります。生体が認識していると考えられる場合であっても、必ずしもそれが意識されているかどうかはわからないといえ、仮に意識されていなくても、生体としての認識システムが作動している場合もあるからです。私はこの認識はされていても、意識はされていない状態を、認識における「無意識」の状態と表現しようと思います。


 ところで私達は、自分以外の人も、自分とだいたい同じような意識内容をもっているという仮定を前提としていると考えられます。もちろん意識内容は、本人の内観報告によらないとわからないわけですが、意識内容がそれぞれ全く同じということはないでしょうし、逆に全く根底からすべてが異なっていれば、他者の意識内容を推測し理解することはできないと考えられますので、意識内容のうちある部分は共通で、ある部分は相違している、しかし共通した部分においても質や程度の差があるという考え方が、基本的に他者の意識内容の理解には必要といえると思われるからです。

 ところで、生物、とりわけ動物が、進化的に意識をもったと考えられるのは、いつ頃なのでしょうか。もちろん想像でしかありませんが、単細胞生物には意識はないと考えていいように思いますので、多細胞生物、中でも中枢(脳)という構造をもった段階で、意識をもつことが想定されてくると思います。ここで私は、意識が生じる前の段階での中枢の機能というものがあって、その後に意識が生じてきたのではないかと考えています。意識が生じる前の段階とは、さきほど申しましたような、生体としては何らかの認識システムは作動しているとしても、意識はされていない状態に似ているようにも思うのです。個体にとって、このように、認識はされていても意識はされない状態を精密にコントロールすることの必要性から意識という現象が生じてきたのでしょうか。だとしますと、意識は、感覚の鋭敏化や統合の機能の必要性などから生じたということなのでしょうか。さらに、感覚から行動への直接的、反射的な移行反応だけではなく、感覚入力から行動を起こすまでの時間的なタイミングや行動の多様化とその選択に対する思考過程の存在の必要性、また、敵に襲われるなどの際の恐怖などの感情の芽生えが、意識現象が生じるきっかけとなったということなのでしょうか。


 ところでよく、心の中で意識されているのは氷山の一角で、9割以上は無意識の状態といわれますが、これは、そのときその瞬間に意識されていることはごく一部で、それ以外の大部分はいわば記憶の中にしまわれている、という意味にもとれます。また無意識で行われていると思われる認知活動も、ある程度の量や範囲があると思われ、それ以外の、認知活動に関係していない部分というのは、やはり記憶の中にたくさんあると考えられるのです。


 ここで、何かについてアウェアネスをもっている、何かを意識しているという場合、その意識される対象とは何かということですが、これには大きく分けて四つあると思います。一つめは感覚、二つめは思考、三つめは感情、四つめは自分の行動に関する意識です。私達の意識している内容というのは、いつもこれらの四つのうちのどれか、あるいはこれらが合わさったものと考えられます。例えば何かを見ながら、それについて何かを考えれば、見るという感覚と、思考することが同時に意識されるということですし、何かを見て、考えながら感動すれば、見るという感覚、思考、感情が同時に意識されるということになります。また、皮膚に痛みの感覚が感じられ、不快な感情が起きれば、感覚のあとに感情が意識されることになります。ちなみに何かの感覚が感じられると、それに伴ってほとんど同時に思考がなされ、純粋な感覚とはどこまでで、どこからが思考なのかよくわからない場合もあるかもしれません。


 また、自分の行動に対する意識(または認識)は、次にとるべき行動のために、いつも必要なものとなります。

 感覚について考えてみようと思います。感覚には、体性感覚、これには皮膚など表在性の感覚と、深部感覚といって関節などからの位置覚、振動覚などがあり、また視覚、聴覚、嗅覚、味覚、内臓感覚などがあります。ここでは皮膚の体性感覚、視覚、聴覚についてお話ししようと思います。

皮膚の体性感覚

 まず皮膚の体性感覚(触覚)について取り上げたいと思います。その理由は、リベットによって、皮膚の体性感覚と意識との関係が、詳細に調べられているからです。リベットは、ある皮膚の領域に相当する、脳の一次体性感覚皮質の表面に電極を設置し、脳皮質を直接的に電気刺激することによって、誘発される感覚を調べる実験、その脳皮質に相当する皮膚の領域に電気刺激を与えることによって、脳で生じる電位変化と皮膚での感覚意識との関係を調べる実験、また、皮膚と脳皮質との間の感覚上行路である内側毛帯を刺激する場合に誘発される感覚、そしてそれらの感覚の相互の比較などの実験を行いました。


 まず脳の体性感覚皮質を、反復的な短いパルス電流で刺激したところ、その刺激パルスが、500ミリ秒間継続されると、皮膚感覚の意識経験を引き出せる「さわった」という感覚が生じるということがわかりました(この脳への刺激の継続が、500ミリ秒に満たないと、基本的に感覚意識は生じないとのことですが、刺激強度を上げることによって、500ミリ秒以下(未満)でも感覚意識を引き出すことができるとのことです)。この感覚は決して脳に生じるのではなく、それに相当する皮膚の領域に生じます。これによって、皮膚の感覚意識が生じるためには、最大約500ミリ秒間の脳の活性化が必要であることがわかりましたので、「皮膚への刺激においても(この時間的制約)が当てはまるのならば、意識を伴った皮膚感覚が現れるために、皮膚への、単発(1回)の有効な刺激パルスによって、皮膚感覚が生じるために必要な十分な長さの(500ミリ秒間続く)脳の活性化が生じているのか」ということが次の論点となりました。


 そこで、皮膚に単発の有効な刺激を与え、大脳皮質での電気反応を調べました。すると、刺激を受けた皮膚領域に相当する、大脳の感覚皮質の特定の小さな領域で、まずはじめに初期誘発電位が局所的に発生しました。この初期誘発電位(初期evoked potential、以下、初期EPと略します)は、頭(頭皮)からのような距離の短い経路の場合、14~20ミリ秒くらいで、足(の皮膚)からの長い経路では40~50ミリ秒くらいで、皮膚刺激のあと大脳皮質に生じます。ちなみに、大脳皮質の下に位置する感覚上行路である内側毛帯を刺激しても、この初期EPは生じます。しかし、大脳の感覚皮質への直接の電気刺激では、この初期EPに相当する反応は生じません。リベットによると、この初期EPは、感覚意識を引き出すための必要条件でも十分条件でもないとのことで、つまりこの初期EPは、何の感覚意識も引き起こさないということです。したがって、脳でのこの初期EPのあとで生じる反応が、皮膚の感覚意識を生み出すのに必要らしいということになるわけです。そしてその後の実験で、皮膚への単発のパルスによる刺激においても、感覚意識が生じるためには、適切な強さの脳内のニューロンの活動が、(最大)約500ミリ秒間続かなければならないことがわかりました。つまり、皮膚を刺激した場合でも、感覚意識が生じるまでには、大脳皮質を直接刺激する場合と同様に、(最大)約500ミリ秒間という時間がかかることがわかり、その時間の分だけ(感覚意識は)遅延している、感覚意識が生じるまでには時間がかかっているということになるわけです。ちなみに皮膚刺激に伴う初期EPのあとに続く脳での反応は、この感覚意識(アウェアネス)の時間的な遅れに必要な、脳が活性化をするのに十分な長さの500ミリ秒以上の間持続するとのことです。つまり、皮膚が刺激されてから感覚意識が生じるまでに、500ミリ秒かかっているはずだということです。しかし私達は、皮膚刺激に対してほとんど即座に気付くようで、このような遅延なしに(皮膚での感覚を)経験したと主観的には信じているわけですが、これはどうしてなのかということになるわけです。皮膚が刺激されてからそれを感じるまでに、500ミリ秒間もかかっているとは思えないということです。


 ここでリベットが考えた仮説は、「皮膚刺激の感覚意識はおおよそ500ミリ秒間の適切な脳の活動が終わるまで事実上遅延する、しかしそこで、初期EPの時点までさかのぼる、感覚経験の主観的な時間遡及が起きる(時間的に逆行して遡及する)」というものです。つまり、皮膚刺激によって皮膚に誘発された感覚は、その感覚経験を引き出すニューロンにとって必要な時間である500ミリ秒後まで実際に現れないにもかかわらず、遅延がなかったかのように感じる、初期EPのタイミングまで、主観的に前戻しされるということです(図1)。これは、初期EPは意識にはのぼらないものの、時間的なタイミング信号(タイミングを提供する情報)を与えていて、その初期EPの時点で感覚が生じたように感じることとなる、ということです。ちなみにこの初期EPの時点まで感覚経験がさし戻されることに相当する脳内活動は見あたらないとのことです。


 この初期EPが、意識にはのぼらなくても、時間的なタイミング信号を提供するということについては、その刺激自体にはアウェアネスがなくても、その信号を検出することができるという点で共通する、刺激に対する「反応時間の測定」を例に挙げています。例えば、光が見えたらできるだけ速くボタンを押すような反応時間の測定(この場合は視覚刺激)の場合、刺激に対してのはっきりとした意識をもたなくても反応できるということです。


 ここで、脳の感覚皮質に、500ミリ秒間の連発した刺激パルスが与えられ、その500ミリ秒の間に、さまざまな時点で皮膚に単発のパルスを与えるという、大脳の皮質刺激と皮膚刺激とをペアにして与える個々の試行のあと、被験者に二つの感覚のうちどちらが先に現れたかを報告させる実験が行われました。この実験で被験者は、皮膚パルスが皮質刺激の開始と同時に与えられると、皮膚で生じる感覚は、皮質刺激で誘発される感覚の前に現れたと報告し、皮膚パルスが皮質刺激の開始後、数100ミリ秒間遅延したとしても、同様に皮膚で生じる感覚は、皮質刺激で誘発された感覚の前に現れたと報告し、皮膚パルスが約500ミリ秒間遅延したときにのみ、両方の感覚がほとんど同時に現れたように感じると報告したとのことです。明らかに皮膚刺激で誘発された感覚は、皮質刺激で誘発された感覚と比べて遅延がないようにみえ、皮質刺激で誘発された感覚は、皮膚刺激で誘発された感覚と比較して、約500ミリ秒間遅延しているということがわかります。


 また、感覚上行路の途中経路である内側毛帯を、連発パルスで刺激した場合と、皮膚への有効な単発パルスでの刺激とを、時間的に比較しました。内側毛帯への連発したパルスの、それぞれ個別の刺激パルスは、感覚皮質で記録可能な初期EPを引き出します。これら二つの感覚のうち、主観的に先に現れたのはどちらであるかを被験者に報告させる実験で、内側毛帯での連発刺激のはじまりと同時に皮膚パルスが与えられると、被験者はどちらの感覚も同時に現れたと報告する傾向がありました。内側毛帯を刺激した場合は、その刺激の持続時間が500ミリ秒間に達しないと、感覚が得られないことがすでにわかっているとのことです。内側毛帯への刺激を500ミリ秒以下(未満)にすると、それに誘発される感覚は突然消えます。したがって、内側毛帯によって誘発される感覚は、500ミリ秒間の刺激のあとで生じるものとわかり、それと同時に感覚が生じる皮膚への単発の刺激でも、同様に500ミリ秒たってから感覚意識が生じているということになるのです。


 これまでのことをもう一度申しますと、単発の電気パルスで皮膚を刺激すると、その刺激に対する感覚は約500ミリ秒たってからでないと生じないはずなのに、(その約500ミリ秒前の)皮膚が刺激された時点(初期EPが生じた時点とほとんど同時)でその感覚が生じたと感じるということです。ここで、約500ミリ秒たってからでないと感覚意識が生じないということの理由ですが、おそらくこの約500ミリ秒の間に、その感覚情報が記憶情報(長期記憶)との照合などの処理を受け、この処理過程を経ることで、感覚情報として完成され、その完成された感覚情報が意識化(意識にのぼることを意識化と表現します)されるということではないかと考えています。さらに実際にはこの感覚が完成(記憶情報との照合を経て感覚が完全に成立することをこのように表現しようと思います)した時点よりも約500ミリ秒前の、皮膚が刺激された時点(初期EPの時点)で感じられるという、主観的な前戻しという表現は、いかにもタイムマシンのようなもので時間的に戻っているような印象があります。このことについての一つの考え方ですが、最初に刺激が脳皮質に到達した初期EPの時点で(頭部であれば10~20ミリ秒後、足であれば40~50ミリ秒後)、はっきりとした感覚意識ではなくても、何らかの感覚(これにより刺激の時間と場所の情報は提供されます)が生じていて、その後の約500ミリ秒間で、記憶情報との照合などを経て皮膚感覚として完成し(つまりこの時点でその感覚がどのようなものかが分析され明確なものとなるわけですが)、はっきりと明瞭に意識化され、さらにこの際、さきほどの初期EPが生じた時点でのはじめの感覚と、いわば統合されて、一つの感覚として意識されたということではないかと考えています。この初期EPが生じた時点というのは、皮膚が刺激された(ほとんど)その瞬間ということとなります。もともと500ミリ秒間というのはほんの一瞬ですから、はじめの感覚と、次に完成した感覚とが、時間的にほとんど同時に感じられたとしても、おかしくはないように思います。これによって、皮膚が刺激された瞬間に感覚が得られたということとなるわけです(図2)。


 この節のまとめですが、皮膚刺激による情報が脳の感覚皮質に到達しても、すぐに皮膚感覚が意識として生じるわけではなく、意識化には500ミリ秒程度の脳の活性化が必要であること、にもかかわらず実際の感覚は刺激された瞬間として感じていることがわかりました。このリベットによる知見は、他の感覚を考える上でも、基本となるものと思います。この約500ミリ秒間は、おそらくは記憶情報との照合を経たのちに意識化される(感覚として意識される)までの時間ではないかと考えられます。だとしますと記憶情報との照合には前頭前野が関係していると考えられ、感覚意識が生じるためには、前頭前野との連携が前提となっているといえるのかもしれません。

「意識」と「認識の過程」 【全7回】 公開日
(その1)意識のゆりかご─意識はどこで生まれるのか 2025年10月31日
(その2)視覚 2025年11月30日