人はいつも動いている
ふだんの生活の中で、周囲の人々を見渡してみると、ほとんどの人は何らかの動きをしている。誰かと会話をしながら手や頭、上半身を動かしている人、歩きながら頭や手を動かしている人、走っている人、何か食べながら手や頭、口を動かしている人、スマホの画面を見ながら手、指先を動かしている人など、体のいずれかの部分を動かしている。イスに座って動きが止まっていても、しばらくすると動き出して、眠っていたのかなと思われる人もいる。寝ているか、瞑想しているかなどの状況でなければ、全身がピタッと止まっている人を見つけるのは難しい。つまり人はいつも何らかの動きをしているということである。これはあたりまえのことのようだが、考えてみると奥が深い。動くということは、手足の末梢の機能が関係するだけではない、動くためには中枢つまり脳からの指令がでているということである。
風が強いため体が揺れるとか、誰かに押されて体が動かされるとか、何らかの外力で体が動かされるということもあるが、この時も多くの場合は、倒れないように手足、体幹に踏ん張って力を入れるとか、何らかの外力を受けるのと同時に、自分自身でも脳から指令を出して、それに対しての力を発揮している。つまり私たちは常に脳の中の、体の動きに関係した部位を機能させている、脳の中の動きに関係した細胞が活動しているということになる。
たとえば数分間でも、手をまったく動かさないでじっとしていると、手の関節が何となく固まったような感じとなり、この関節がかたまるような感じを防止するということからも、いつも手を動かしていることは大切である。もちろん体を動かすこと自体、生活習慣病の予防につながると考えられる。このように動くことはとてもいいことである。
人は一瞬たりとも止まってはいない、常に動き続けているといわれるが、これは静止するという状態が、重力をはじめさまざまな外力との平衡状態をつくりだすことによって達成されるもので、厳密にピタッとは止まれないという意味を含んでいる。
一般に動物は体を動かすことが前提となっているといわれる。その理由として、一つは動きが止まっていると外敵に襲われやすい、じっとしていると捕食者に食べられてしまうというのがある。弱肉強食の動物界で、敵から身を守ることは重要であり、じっとして動かない時間が長いと、そのぶん襲われる危険性が高まる、ちなみに排泄の際には一時的に動きを止める必要があるが、動物の排便に必要な時間というのが平均して約12~13秒といわれ、ごく短時間であるが、これも捕食者に狙われないための方略と考えられる。
動きの基本的な考え方
次に動きをどのようにとらえたらいいか、動きにはどのようなものがあるのか、などについて考えようと思う。
動き(運動行動)は、「運動」(movement)、「動作」(motion)、「行為」(action)の要素に分けられている。ここで「運動行動」とは、運動心理学において顔を洗う、歯をみがく、字を書くなどの日常生活での動きや、走る、ジャンプする、ボールを投げるなど遊びやスポーツでの動きなど、さまざまな身体活動のことをいう。「運動」とは、身体各部位が時間とともに位置を変えること、つまり筋肉の収縮に伴う関節の動きのことである。「動作」とは、ある意味を持った動きで、行為をいくつかに分割した要素的な動きの一つのことである。「行為」とは、先ほどの要素的な動作の組み合わせで成り立ち、動きを目的や意図との関連でとらえるもので、目的や意図をもって意味のある動作を行っていき(課題task の遂行)、結果を確認するものである。また「行為」が社会的な意味や価値を帯びている場合は「行動」(behavior)または「活動」(activity)と呼ぶ。さらに、「行為」によって他者に意味を伝達することを「パフォーマンス」(performance 身体表現)という。たとえばレストランのドリンクバーで飲み物を持ってくるという「行動」であれば、まずテーブルから立ち上がる、ドリンクコーナーまで歩く、コップの入ったかごを引き出す、コップを手に持つ、サーバー器にコップを置く、飲み物のボタンを押す、飲み物がつがれたコップを手に持つ、テーブルまで歩く、この際飲み物がこぼれないようにバランスをとってコップを安定させて持ち運ぶ、という一連の「動作」が次々と行われることによって、ドリンクバーコーナーから飲み物を持ってくるという「行動」となる。この間に、たとえばカゴからコップを取る際、コップに腕を伸ばす、コップに対して手を構える、手指でコップをつかむ、などの個々の「動作」が組み合わさって、カゴからコップを手で取るという「行為」が成り立っている。このように運動行動は、「運動」を基礎に、「動作」がつくられ、各動作の組み合わせによって「行為」が成り立つというように、各要素が階層的に関連している。
ジェスチャー
ここでジェスチャーという行為を考えてみる。ジェスチャーとは、他者に何かを伝えるためにする身振りのことであり「パフォーマンス」といえる。非言語コミュニケーション(nonverbal communication)として、言語コミュニケーション(verbalcommunication)とともに頻繁に使用されるものだが、このジェスチャーには、意味のあるものと意味のないものとがあるといわれている。意味のあるジェスチャーとは、指で丸くつくってOKサインをだすとか、寝ていることを表現するため両手を合わせて耳につけ、頭を横に傾けたり、バンザイで両手を挙げるとか、サヨナラで手を振るとか、おなかがいっぱいですという感じで両手をお腹にあてがうとか、たくさんある。これらは何らかの意味内容を伝えるものである。意味のないジェスチャーとは、たとえば何となく手を耳の近くにもっていったり、あごの下でパーのような指を作ったりなど、見ているものがその動きの意味を理解できないものということである。
意味のない動きとは
ところで日常の場面で、意味のない動きについて考える。他者から見たら意味がない、意味が理解できない行為というのは確かにある。しかし本人にとってそれが本当に意味のない動きなのかどうかはわからないともいえるだろう。本人にとっては何らかの意味があっても、他者にはわからないということもあるだろう。また本人にその動きの意味を聞いたとしても、本人も答えられないということもあるだろう。しかし本人が答えられないとしても、それで意味のない動作であると判断することはできない。本人にとって意味があっても、本人がその意味を説明できない(言語化できない)という場合もあるだろう。
ところでずっと同じ姿勢で座って仕事をしていると、肩や腰などの筋肉がこわばった感じになり、体を動かすことによってほぐされリラックスされることもあるが、この時の体の動かし方は人それぞれであって、もしその動きのごく一部だけを見たとしたら、おそらくその動きの意味はわからないだろう。これは理解できない動きでも、本人にとっては意味があるという場合である。ハワイの伝統的な踊り「ハワイアンフラダンス」において『アロハ』の意味は、愛、思いやり、尊敬する、憐あわれみ、こんにちは、さようならと多岐にわたる。一方、たとえば振付師が考えた振り付けに合わせて歌い踊るアイドル歌手の場合は別である。そのひとつひとつの動きにハワイアンのような言語的な意味があるのか否か、どのように解釈したらいいのか、分からないことのほうが多いと考えられる。むしろこのような場合は、楽曲のリズムに乗った勢いとしての動きという側面が主体なのだろう。もちろん楽曲に合わせたアイドルの動き、パフォーマンスは、見る人に感動を引き起こす。言語的な宣言的な表現はできなくても、見る人にとって、すばらしいとか、きれいだとか、感動を与えることはできる。一般に芸術というのは、言語によらなくても、そのような感覚的な内容、イメージを伝えることができる。またある動きに、無理やり言語的な意味をこじつけることだってできなくはない。つまりある動きに言語的な意味があるとかないとかという視点から、その動きには意味がありませんということはできず、ある動きに意味があるかないかという解釈は、むしろそれを判断する側の立場の考え方に依存しているともいえると思われる。
| 動きと意識 【全7回】 | 公開日 |
|---|---|
| (その1)Ⅰ 動きと意識のダイナミクス | 2025年6月30日 |
| (その2)Ⅰ 動きと意識のダイナミクス | 2025年7月30日 |
| (その3)Ⅰ 動きと意識のダイナミクス | 2025年8月29日 |
| (その4)Ⅰ 動きと意識のダイナミクス | 2025年9月30日 |
| (その5)Ⅱ 脳と運動の相互作用 | 2025年10月31日 |
| (その6)Ⅱ 脳と運動の相互作用 | 2025年11月30日 |



