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第1波 はじまりは北京から(2020年1月~4月) | 前のめり主婦の大きなひとり言 ~2020年ドタバタ育児自省録

うまこ

愛知県出身 1987年生まれ。
2児の母

2020年コロナ禍の育児にひとすじの光を放ちたい。
作品作りを通して、このエッセイには、私がこれまでに出会ったいろいろな人からの言葉が散りばめられている!と、私自身、気づかされました。

嬉しい言葉、
時にはムッとしてしまう言葉、
受け入れがたいけれどなぜかずっと引っかかる言葉、
心の支えになる言葉、

ペンネーム「うまこ」もその1つ。
常にせかせか、時に一生懸命になりすぎて前のめり、
決めたゴールに向かってひたすら走る

ある時、上機嫌な友人に
「馬力があるよねー!いっそのこと名前、馬子にしちゃったら!?」と言われました。
その時は可愛げもないし、受け入れ難かったネーミング。しかし、作品を書き終えた頃には、自分でも認めざるを得ないほど、私は前のめり主婦「うまこ」だと腑に落ち、妙に愛おしく感じました。

誰かの一言には力がある。
言葉に泣かされ、言葉に救われた1年でした。
私も悲劇を喜劇に変えられるような前向きな言葉を発しながら、人や、世代、時代のつながりの中を軽やかに駆け抜けたいと思います。

このエッセイを読んで、うまこの前のめり加減を笑ってもらえたら幸いです。


■座右の銘
「よく遊びよく学べ」
うまくやろうと力まずに、何事も楽しく軽やかにやろう!遊びの中にひらめきあり!
「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

第1波 はじまりは北京から(2020年1月~4月) | 前のめり主婦の大きなひとり言 ~2020年ドタバタ育児自省録

2020年、「思ってたのと違う」幕開け

早期帰国!?

2020年最初にして最大の「思ってたのと違う」は、

中国・北京に夫を一人残しての母子早期帰国だった。

2020年1月、

私はこの年の抱負として「穏」という字を書き初めした。

夫の海外赴任に同行、3年間の北京生活。

1歳10ヶ月の娘をつれての海外。

初めての育児、初めての海外生活。

山あり谷あり、笑いあり涙あり。

そんな3年の任期も残すところあとわずか。

ここでの学びを今後に生かして、「穏やかに」生きていこう。

今年は帰国、娘の入園、出産・・・いろんなことが待ち構えている。

変化を恐れず、変化を楽しむ気持ちで、心穏やかに過ごせたらいいな。

私はここまでの達成感と今後への期待に心踊る気持ちだった。

あとは、悔いのないよう、

食べ納め、見納め、買い納め・・・

お世話になった人々ときちんとお別れをして・・・

荷造りをしながら、私は完璧な帰国を目指して計画を立てていた。

春節、真っ赤な正月飾りが北京を華やかに彩る。

そこから、日常は思いもよらぬ事態へと急転直下することになる。

中国・武漢市から新型コロナウイルスが全世界へと拡大。

日本では、どの局もクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号のニュースを

大々的に取り上げていた。

日本のニュースを眺めてはいるものの、私はどこか他人事だった。

この先に何が起こるのか、想像できなかった。

けれども、事態は急速に変化した。

春節後、北京の街から人が消えた。

いつもすし詰め状態だったバスも幽霊バスのようになった。

娘が通っていた現地幼稚園も全面立ち入り禁止となった。

マンションの入り口には検温とアルコール消毒が置かれた。

これはただならぬことが起こっている。

ようやく実感がわいてきた。

日本にいる実家の家族から、頻繁に電話がかかってくるようになった。

「そっちは大丈夫?」

「早く帰って来ることはできないの?」

心配する母。それもそのはず、私は妊娠7ヶ月。そしてかわいい4歳の孫が

危険な地にいるのだ。今すぐにでも脱出を願って当然だ。

でも、当の本人である私は、大丈夫だからと受け流す。

心配な気持ちが増えるだけだから、ニュースを見る事はやめた方がいい、

などと投げやりな言葉を母に伝えた。

残りあとわずかなのだから。荷造りだってまだ残っている。

早期帰国なんて考えてもいなかった。こっちでなんとかするから。

心配してくれる気持ちを重荷にすら感じていた。

冷静だったのは、夫だ。

情報を集めて最善の策を考えていた。

日本行きの飛行機の便が刻一刻と減っていく。

このままだと、本当に帰りたいときに帰れなくなる。

感情的になり現実逃避している妻を相手に、

夫は私たちの置かれている状況をわかりやすく説明した。

家族一緒に帰りたかった。ここまで苦楽をともにした家族。

家族バラバラになって帰国することなんて想像もしていなかった。

しかし、もう状況は違うのだ。

これからどうするかを考えなければならない。

私は自分のことしか考えていなかった。

私はお母さんとして、娘とおなかの中の赤ちゃんを守らなければならない。

少しでも安全なところへ。連れて行けるのは私だけ。

この瞬間の悲しい、悔しい気持ちはきっといつか絶対思い出に変わる。

でも、命に何かあっては取り返しがつかない。

そして、私は4日後に娘と2人で北京を飛び立つことを決意した。

覚悟ができれば後はやるだけ。急ピッチで荷造りをした。

後ろ髪引かれる思いを吹っ切るかのようにドタバタとできる限りのことをした。

2020年の幕開け。ちっとも穏やかではなかった。

世界中の人の「思ってたのと違う」。

人生では予期せぬ事が起こり得るから、私たちは備えておきたい。

どんなことが起きても、どんと構えていられるメンタルの強さと、

飛び交う情報を取捨選択し冷静に判断する力、

今までとは違う行動を決断できる勇気、

悲劇はいつか喜劇に変わる、そう信じて今ここを懸命に生き抜く力を。

食わず嫌い

中国・北京での暮らしは、まさに「住めば都」だった。

新しい人間関係、新しい生活様式、物珍しい文化…

好奇心旺盛な私にとってココロオドルものだった。

幼い娘を連れて海外で生活することに全く不安がなかったわけではないが、

それよりも好奇心が勝った。家族一緒なら、きっと大丈夫と楽天的だった。

私にとって、距離的には近い、でも気持ち的には遠かった中国・北京。

テレビの情報でしか知りえなかった北京。

北京ダックか、PM2.5という大気汚染のイメージしかなかった場所。

出発前の私は無関心だった中国。

しかし、それは食わず嫌いと同じだった。

いざ生活をし、そこに住む人々にたくさん助けてもらった。

私のカタコトの中国語に、終始耳を傾けてくれた現地の人々。

さっぱりとした中国人、おいしい中華料理、活気あふれる北京の朝の光景、

中国の建物や文化のダイナミックさと繊細さにすっかり虜になった。

心動かされる出来事に出会うたびに、

私にとってそこはかけがえのない場所となった。

娘も大きな病気一つせず、すっかり環境に適応した。

せっかく海外で生活しているのだから、かわいい子には旅をさせよ精神で、

彼女は日本語が一切通じない現地幼稚園へ通った。習うより慣れよである。

一年経つ頃には、クラスで一番たくさん肉まんを食べるという

輝かしい功績を残すほど、たくましい子どもに育っていた。

そんなあるとき、娘の幼稚園で文房具を各自用意するように言われた。

私は、「これらはどこで買えるのか」と、近くにいた現地ママに尋ねた。

売り場を説明してくれているのだが、ネイティブスピーカーの

流れるような中国語を聞きながら、私は曖昧な笑顔を返すしかできなかった。

(笑ってごまかす、これも今後私が直したいクセである。)

何度か説明してくれたのだが、やはり聞き取れない。

しびれを切らした現地ママは、一言。

「ズオシャー!!(乗りな!)」

私は北京の大通りを現地ママの運転する自転車の後ろに乗って疾走していた。

中学の社会の教科書に載っていた写真の中に自分がいる、

まさにそんな感覚だった。

中学生だった私が見た写真は、たくさんの自転車が大通りを埋め尽くしていた。

それから20年近く経った。あの光景も少々姿を変え、今では自動車が増加。

レンタル自転車やモバイル決算が急速に進む国、発展のめざましい国、

その空気感を、現地ママの自転車の後ろで味わうことになるとは

思ってもみなかった。

大人になって自転車の二人乗り。

恥ずかしいやら照れるやら、少し怖いやら。でも心は躍っていた。

現地ママの背中から、優しさとたくましさを感じた。

無事、目的地にたどり着き、買い物もできた。

その後も彼女は、ことあるごとに私を気にかけてくれた。

また、中国では通りすがりのおばあさんが、私が抱いている娘を見て、

「子どもに靴下をはかせないと冷えちゃうよ」と声をかけた。

おばあさんに限ったことではなく、若いお兄さんからも

「子どもに帽子を被らせないと熱中症になるぞ」と指摘されたことがある。

中国では、みんなが親戚のようだった。

このように、現地の人々との交流によって、私の生活は支えられた。

異国の母たちとの交流を通して、母親の悩みは万国共通だとわかった。

食事を食べるか食べないか、何時に寝るか、習い事、将来のこと・・・。

また、家族を取り巻く問題で言えば、

「一人っ子政策が解除されたが、教育費が高いから2人目は考えられない」

と話す家庭も少なくない。

北京では共働きが多く、子どものお世話は主に祖父母の役目。

子どもは三度の食事を幼稚園で食べることができる・・・

日本と中国の同じと違いを見つけることが楽しかった。

日本では当たり前のことが中国では当たり前ではない。

中国で当たり前のことが日本では当たり前ではない。

当たり前ってなんだろう。

誰にとっての当たり前なのだろう。

そんなふうに、中国を知ることは日本を知ることにもつながった。

中国人を知ることは、日本人を知ることにつながった。

誰かを知ることは、自分を知ることにつながった。

国籍や言語が違っても、子ども同士は国の違いなんて関係なく、無邪気に遊ぶ。

お互いを人と人として認め、受け入れ、この瞬間を共有していた。

食わず嫌いをしていては、もったいない。

私にとって近いけど一番遠い国だった中国。

この国を好きになれて大切なことに気づかされた。

曖昧な情報や偏見を取り払って、どんどんつまみ食いをしよう。

自分の五感で感じよう。味わおう。

きっとまだ出会ったことのない“好き”が隠れているかもしれない。

家族の色

「家族」とひとことで言っても、その構成や形態は同一ではない。

駐在生活を通じて、家族には実に様々なかたちがあることがわかった。

家族がいつも一緒とは限らない。日本と北京、離ればなれで暮らす家族。

世界各国に散らばっている家族。単身赴任。

形態だけでなく、家族の内情だって多様化している時代だ。

外から見ただけではわからない家族の事情が山ほどある。

あるとき、夫が「結婚は異文化交流だ」と言った。

育ってきた家庭が違う者同士が一つ屋根の下で暮らし始めるのが結婚だ。

生活習慣の違いや家独自の食文化、意見が食い違うことだってあるだろう。

そんなときでも、

“違いを認め、違いを楽しみ、受け入れ、新しいものを生み出す”

この姿勢が異文化交流、結婚生活を楽しむ秘訣だと私は思う。

おでんの具は何を入れるか、正月元旦の過ごし方、歯磨き粉の使い方、

電子レンジを使うときに蓋をするかしないか・・・etc.

些細なことに違いやこだわりが見え隠れする。

黒と白を混ぜてグレーができるように、

どの家庭も2つが混ざり合ったグレーでできている。

しかもその濃さは千差万別。

それでいいのだ。家族によって幸福の形も同じではない。

オリジナリティあふれるグレーを作り出すことが、

世界にたった一つの“我が家”を作り出すことなのだ。

今ではSNSによって他人の家庭の内実が目に触れやすくなった。

ワイドショーでは芸能人家庭のスキャンダルが大々的に報道される。

好奇心から他人の家庭を垣間見て、あれこれと意見する。

自分の価値観をものさしにして、他人の家庭をはかろうとする。

そんなことはしなくていい。そんなことはできっこない。

なぜなら、そもそも最初から全く違うものなのだから。

彼らの事情は彼らのもの。私には無関係。

無関係なはずなのに自分に置き換え空しくなるのはなぜだろう。

そんなときはテレビやスマホから遠ざかろう。

私は家族といっしょに、我が家のオリジナル色を作っていく。

ただそれだけに目を向けよう。

家族というものが軽んじられているように感じる。

これからの子どもたちには、家族を作ることに希望をもたせたい。

他人の家庭と比べなくていい。

黒と白が混ざり合い、我が家だけのグレーを作る。

家庭を築くとは、異文化交流、お互いを知っていく、わくわくする過程だ。

相手との違いに驚くこともあるだろう。でもそれを否定しない。

私の文化を押しつけない。私の思う当たり前は当たり前ではないこともある。

そんなふうにお互いの文化や思想を、混ぜ合わせていくことが結婚生活。

核家族化が進み、一層お互いが異文化を楽しむ力が求められている。

他のどこにもない私たち家族だけの色。

誰にもとやかく言われたくないし、

誰かの家庭についてとやかく言いたくない。

私は私の家族を楽しめばいい。

育休シンドローム

北京生活は住めば都。

好奇心旺盛な私にとって、異文化に触れる、外国語を学ぶ経験は

とても刺激的だった。毎日楽しい、充実した生活…のはずが、

そんな私をも悩ませ、身動きとれなくするもの、

それは「ない、ない、ない」の反芻である。

育休、それは最愛のわが子に全力で愛を注ぐための貴重な時間。

とはいえ、私は悶々とした日々を過ごしていた。

私には自由な時間がない、私には自由にできるお金がない、

私にはコミュニティがない、私には社会とのつながりがない、

私には育児を共に励まし合う戦友がいない…

一度「ない、ない、ない」の反芻が始まると止めることは困難だ。

脳は非常に高性能、一旦スイッチが入ると、次々に「ない、ない、ない」を見つけ出そうとする。しまいには夫と自分を比較し、

どんどん気分が落ちていく。

夫には一人になる時間があるが、私にはない、

夫には仕事というやりがいがあるが、私にはない、

「夫にはあって、私にはないもの」探しに始まり、

しまいには社会で活躍する友人との比較にも発展した。

最愛のわが子との時間。何よりも幸せな時間、のはずだった。

しかし、私はお母さんを楽しめていなかった。

「育休でしょ」の一言がなぜか私を苦しめていた。

でも、その原因は、わが子のせいでも環境のせいでもない。

全ては私の“思い込み”が原因だった。

外で働く人は偉い、私は家にいるのだから、家事ぐらいしっかりやっておかないと

申し訳ない、という真面目スイッチ。

夫が働いている間、私だけランチしてお金を使うのは申し訳ない、

休日夫に子どもを預けて、一人時間をもらったとしても、子どものことばかり考えてしまい、気が休まらない。

そんな思い込みが私の中にはあった。

完璧主義で手が抜けない。変に気を使って夫に遠慮してしまう。

これは最終的に私をフリーズさせ、

結果的に私の機嫌の悪さは家族にも飛び火した。

私は、自分の中にある“思い込み”と向き合うことにした。

私の中には「~しなければ」という自ら作り上げたマイルールがあって、

それができていないとダメ、できない自分はダメな奴、というような

妙に自分に厳しい一面があったのだ。

幸い、「大変なら家事は手抜きして。頑張りすぎて機嫌が悪くなる方が困る」と

夫がはっきり言ってくれたことから、私は家事を完璧にこなすことよりも

自分の機嫌を上機嫌に保つことを優先するようになった。

どうしてもてんてこ舞い状態の時は、お惣菜を買ってもいい。

掃除機かけていなくてもいい、洗い物が終わってなくてもいい。

「~しなきゃ」を手放すことが徐々にできるようになった。

それから、「女性も社会で輝く時代」こんな言葉のイメージも

自分の「こうあるべき」を無意識につくり上げていた。

これまで私はひたすら社会の中で自分を生かすための努力をしてきた。

人とのつながりの中で、所属感やそれなりの達成感、やりがいを感じてきた。

そして出産を機に家庭が居場所になった。

仕事か家庭か、どちらも選ぶは贅沢なのだろうか。自己実現に貪欲な気持ちが湧く。

SNSを通じて、社会で活躍する友人を見るたび、まぶしく、羨ましさを感じた。

家庭の中で育児は、思ってたのと違った。

赤ちゃんと私。喜びもあれば孤独な日々。

自分の中で作った指標に基づいて達成感を感じる、

自分の中で作った時間割の中で一日をこなしていく。

ただ黙々と。誰に褒められるわけでもなく。

「ない、ない、ない」を埋めるために私はひたすらもがいていた。

でも、それは「ある、ある、ある」の裏返しでもある。

育休だからこそ私が手にした時間、それは“自分を見つめることができる時間”。

どんなことをしたら自分は喜ぶのか、何を欲しているのか、じっくり自分と向き合った。

コーピング手段を100個、リストアップした。

社会とのつながり、貢献を求める私。育児をしながらでもできることはたくさんあった。

女性が仕事や家庭を選べる時代になったことは喜ばしいことだ。

だからこそ、自分の中に自分らしい生き方の軸をもっていないと、

その時々の感情の波にのまれてしまう。

選択したからには、覚悟を決めてその状況を楽しめばよし。

自分と家族のための大事な時間。

他の人は気にもとめない私の育休。

何に遠慮しているのだろう。

その貴重な時間を生かすも殺すも自分次第。

どう過ごしたっていいんだから、一呼吸置いて、

「ある、ある、ある」に目を向けて

一日一日を軽やかに過ごしていこうよ。

ドタバタ帰国 

いよいよ北京を飛び立つときが来た。

これまでの日々を思い返すと、達成感やら充実感、

そんな中に、加わった最後の悔しさ、無念。

これらをひっくるめて、きっとより貴重な家族の財産になる。

そんな気持ちでの旅立ちだった。

北京空港では、今まで見たこともないくらい、みんながマスクを付けていた。

どんなに空気が悪くても、ここまで全員がマスクをしている光景を見たことがない。

本当に異常事態なのだと実感した。

1ヶ月ほど、夫はこの地に残る。最後の最後に離ればなれ。

ふと、自分の両親を思い出す。私の父は13年間単身赴任をしていた。

母は3人の子どもを育てた。私が小学校6年から結婚するまでの長い年月。

見送る母はこんな気持ちだったのかな、これを何度も経験したんだよな。

それに比べたらたった1ヶ月。なんてことはない1ヶ月。

だけど今は永遠のように感じた。

「パパ、私たちのこと忘れないかな」

父親に別れを告げ、母子2人、搭乗口に向かう途中、娘がぽつりと一言。

大丈夫、忘れないよ。

「ママ、頑張ろうね」

娘の一言に思わず涙がこみ上げる。たった4歳の小さい女の子が、32歳を励ましている。この3年間だってそうだ。この子がいつも一緒にいて、私を叱咤激励してくれていた。

しっかりしろよ、お母さん!って。

楽しいも嬉しいもいつも一緒。苦しいも悲しいもいつも一緒。心強い相棒だった。

ついに飛行機が離陸した。

荷物の中には、マスクとビニール手袋と除菌用のウェットティッシュ。

自宅を出発する際に、現地ママや駐在ママからいただいた別れの品だ。

同じ子どもをもつ親として、本当に頼もしい仲間だった。

ウイルスという見えない敵との戦い。子どもを守らなければならない母親としての役目。

彼女たちの心遣いが本当に温かかった。不安な機内でも、彼女たちと共にいるような

頼もしさを感じ、感謝の気持ちがこみ上げ、さらに別れの手紙を読みながら泣いた。

ありがとう、みんな。ありがとう、北京。ありがとう、中国。ありがとう、夫。

数々の思い出回想、つかの間の娘との時間、飛行機という非日常、ウイルスに警戒、

そんな時間を味わいながら、あっという間に羽田空港に着いた。

ただいま。日本。

私の中のスイッチはもう覚悟を決め、いざ、出陣!状態だった。

まずは手荷物を回収せねば。この機会を生かして、段ボール6箱とスーツケース1つ、

さらに中国琴(古箏)を持ち帰ってきたのだ。

7ヶ月の妊婦と4歳の娘を見かねたグランドスタッフの方々が運搬を手助けしてくれた。

悲劇はここで起きた。

私のリサーチ不足!楽器は宅配できないというのだ。背負って帰る・・・。

北京生活につかの間の潤いをと、夫にねだって買ってもらった中国琴。

レッスンにまで通わせてもらった中国琴。まさかこの場でこんなに足手まといに

感じてしまうことになるとは。

幸い、背負えるケースに入っていた中国琴。長さ90センチもある中国琴を

私は背中に背負い、スーツケース一つを転がし、4歳の娘の手を引いて、

東京の街へ繰り出すことになった。妊娠7ヶ月なんて関係ない。母は強し。

火事場の馬鹿力!自分の中からムクムク力がみなぎってきた。進むしかないのだ。

地下鉄に乗るまで、気遣ってくれたグランドスタッフの方、本当にありがとう。

人の優しさが身にしみた。

本当にとほほ・・・の状態で、なんとか宿泊先のホテルに到着した。

次の日、実家の母が愛知からはるばる東京のこの宿泊先までやってきた。

中国琴を見るなり、

「あんた一人で運んだの!?」と唖然。

でもまぁよかったよ。無事帰国できて。と安堵の表情。

私もまた、母の顔を見るなり気が抜けた。

ここまでの道中、やはり無自覚にも気が張っていたようだ。

娘もおばあちゃんの登場に嬉しそう。

「でもさ、やっぱりあんたは守られてるよね」

昔から事あるごとに母が言うセリフだ。

「っていうか、我が家は守られてるから。きっとパパも大丈夫だよ」

何の根拠もないのに、妙に説得力のある言葉。

「あなたは守られている」

この言葉をずっとかけてもらったおかげで、私はわりとポジティブに人生を生きている。

母親の声は神の声というのはまんざらでもないなと感じる。

私も子どもたちにガミガミ怒っている言葉じゃなくて、

人生の荒波でピンチな時に、力になるような言葉をかけていきたい。

そして無事、私はふるさとに帰郷した。

夫はというと、それから仕事をしながらドタバタと妻子がいなくなった部屋を

一人で片付けた。突貫工事のような、気が狂いそうな作業だったと彼は言う。

こんな帰国を誰が予想できただろう。

「思ってたのと違う」悲劇からの2020年スタート。

でも、一年経った今、確実に言えることは、やっぱりこれも喜劇になった。

今では家族の物語の1ページ、笑っちゃうような話になったのだ。

知られざる私

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、

私は娘と某牛丼屋にいた。

久々の日本を満喫する予定が自宅での自粛生活。

母子2人、つかの間の外食だった。

今では当たり前になったアルコール消毒をして店内に入る。

この頃、わたしはドタバタ帰国やウイルスを警戒しながらの外出に

ストレスを感じ、心身ともにつかれていた。

どこに潜んでいるのかわからない、目に見えない敵に対して、

神経が敏感になり、ピリピリしていた。

「あんた、ちゃんと子ども見てないとだめじゃん」

突然のおばあさんからの声かけに、はっと我に返った。

娘がアルコールをうまくプッシュできず、ボトルをあれこれいじっていた。

そんな様子に私は気づきもせず、ただただ、この店内のどこかに潜んでいるかもしれない

こっちの様子をうかがっているであろう敵を警戒し、あたりをキョロキョロ見回していた。

そこへ突然投げられた否定的な言葉。ついむっとしてしまった。

普段なら、「すみません、気をつけます」で済むところ、

この日の私は「はぁ」と気のない返事しかできなかった。

これには自分でも驚いた。

おばあさんは呆れた顔で、この頼りない母親と

アルコールで遊んでいるかに見えなくもない娘を交互に見ていた。

食事をしている間も、つい今しがたのやりとりが心に引っかかり、

出来たての牛丼はちっとも味がしなかった。

娘と楽しもうと思ってやってきた牛丼屋。

それなのになんでこんな気持ちになっちゃうんだろう。

私だってお母さんとして頑張ってるのに。

何も知らないくせに、ちゃんと見てないとダメだなんて言わなくても・・・

どんどんマイナス感情が膨らんでくる。

おばあさんが悪いわけじゃないことはわかっている。

でも私だってもういっぱいいっぱいなのだ。

神経がすり切れているのだ。

そこへまた食事を終えたおばあさんがやってきた。

「お嬢ちゃん、お互い大変だけど、気をつけてすごそうね。バイバイ。

あんたも頑張ってな。」

思いがけない言葉をかけられ、またしても上手く反応できない私。

おばあさんももしかしたら、牛丼の味がしなかったのかもしれない。

みんなピリピリして、誰かにぶつけたい、声にできない声があって、

思わぬところで表出しちゃって、それをまた自己嫌悪に感じて・・・

みんなみんな自分のことで緊急事態なのかもしれない。

少なくとも、こんな反応をしてしまう私は緊急事態だった。

自分にゆとりがないと他人にも優しくできない。

おばあさん、こちらに寄り添ってくれてありがとう。

まだまだ私は、自分の機嫌もとれない未熟者の母だと実感した。

ゆびしゃぶり

娘はずっとゆびしゃぶりをしていた。

ゆびしゃぶりをしていないのはわが子ではないと思うほど

ゆびしゃぶりがトレードマークになっていた。

このゆびしゃぶり。

一説には、甘え足りないだとか、前歯が出るだとかいい面はあまりない。

そして私はそれらの情報から脅迫されているかのように、

ことあるごとにヒステリックに娘に言うのだ。

「もう、ゆびしゃぶりやめて!」と。

あるときにはわさび、あるときには指に顔を描き、

どうにかゆびしゃぶりを止めさせようと躍起になった。

自分の機嫌が悪いときにゆびしゃぶりをしている娘を見ると

自分が責められているかのように感じ、ますます苛立った。

彼女にとっては安心を得る行動なのだ。

あまり親がとやかく言うことではない。

こんな私でも冷静に見れるときもある。

「あいさつしなさい」、これもそうだ。

ついつい先回りして言ってしまう、「あいさつしなさい」。

登園途中、毎日顔を合わせる交通当番のおじさんになかなかあいさつできない娘。

そんな娘にむかって「あいさつしなさい」、朝からちょっとヒステリック。

あいさつできないとダメなのか?

娘と同い年くらいの子が進んであいさつしていると、どうしてわが子は・・・と悲観的。

それって、親のメンツを守るため?

それからしばらくして、娘は自らあいさつするようになった。

私が先回りして「あいさつしなさい」と言うのをやめてから。

きっと、彼女には彼女なりのタイミングがある。

心の準備やその必要性がわかった時に、ひょいっとハードルを越えるように、

やってみよう、言ってみようと思うときがあるのだ。

「ママ、あいさつしたら気持ちよかったよ」

言われてやるより、自らの決意で行動した時の方がきっと得るものは大きい。

親の都合でまくし立てて、あれしろこれしろと言ってはいないだろうか。

また、親がいいと思う物を子どもの都合に関係なく、提供してはいないだろうか。

ゆびしゃぶりの話に戻る。

結論から言うと、娘は自らゆびしゃぶりを卒業した。

2020年5月、弟が生まれる直前のこと。

たまたま歯医者の待合室でみつけた「ゆびくん」という本。

以前も読んだことがあったのだが、効果がなかった本。

このタイミングで再び出会い、読んだ彼女の中に変化があったのだろう。

「私、ゆびしゃぶりやめる、寝るときは、ママの指を握って寝るね。」

その決意の日を境に、彼女はゆびをしゃぶっていない。

待つことが大切。

「~しなさい」が口から出そうになったとき、

果たしてそれは、本当に子どものためか、それとも親である私のためか、

一呼吸置いて考える。

待つことが親になること。

子どもの力を信じて待つ。

前のめり主婦の大きなひとり言 ~2020年ドタバタ育児自省録 【全6回】 公開日
はじめに 2021年8月31日
第1波 はじまりは北京から(2020年1月~4月) 2021年8月31日
第2波 出産(2020年5月~6月) 2021年9月30日
第3波 何気ない日々だけど (2020年7月~9月) 2021年10月29日
第4波 ヤマアラシのジレンマ (2020年10月~12月) 2021年11月30日