鬼瓦お遍路 四国霊場八十八か所
写真紀行

No,028

富山 弘毅

著者No,028 富山弘毅

作品紹介

著者No,028 富山弘毅

鬼瓦お遍路 四国霊場八十八か所
写真紀行

富山 弘毅

かつて弘法大師が開いたとされる霊場をたどる、人気の四国霊場八十八か所巡り。本書はその同じ道を“鬼瓦”に注目して巡ろうというものだ。普段見過ごされがちな鬼瓦は、それぞれに違う表情をもっていて、見る人を惹き付けてやまない。62点のカラー写真と500点以上のモノクロ写真で綴る写真紀行、そこには馴染みのお遍路とはひと味違う魅力がある。

プロフィール

著者No,028 富山弘毅

富山 弘毅

1936年東京生まれ。和歌山師範付属小学校、群馬県富岡市立一ノ宮小学校、栃木県佐野市立佐野小学校と転校し、佐野市立天明小学校卒。群馬県前橋市立第二中学校卒。群馬県立前橋高等学校卒。東京教育大学文学部哲学科倫理学専攻卒。
1959~62年神奈川県立津久井高校青根分校教諭、1962~72年群馬県立前橋商業高校教諭を経て、1973~2001年日本共産党前橋市議会議員(7期、28年)を務める。世界鬼学会会員、ぐんま住民と自治研究所理事、前橋市革新懇話会代表世話人、群馬アコーディオンセンター顧問、市民本位の前橋市政をつくる会代表委員、前橋・大利根地区9条の会事務局員などを歴任。2017年5月31日、直腸がんのため死去。享年80歳。

世界に平和と正義を!天下をにらむ鬼瓦

平和で人々が大切にされるまともな世の中を目指し、奔走した著者が鬼瓦に魅せられた理由を探る

インタビュー

出版したきっかけはどのようなことだったのでしょうか?

(幻冬舎ルネッサンスを選んだ理由やいきさつは知りません。2013年12月25日に幻冬舎ルネッサンスの当時の担当編集者である関野さんと打ち合わせをしたことが手帳に記録されていました。刊行後、関野さんが退社されたことを残念がっていました。)

「鬼瓦お遍路」の「あとがき」にあるように、仕事・活動の合間に鬼瓦の撮影や研究をライフワークとして国内国外で35年間に撮りためた写真は3万コマを超えました。ふとしたきっかけで屋根の上であたりをにらんでいる鬼瓦に興味をもち、そのさまざまな表情に魅せられて撮影を続けてきた結果です。

初めは身近な退職教員の作品展や年金者組合の作品展に数枚出展したり、日朝協会の機関誌に韓国へ鬼瓦さがしに行った旅行記とともに連載してもらったりしました。それは記録のごく一部でした。それまで鬼瓦はほとんど注目されない存在だったので、このまま埋もれさせるのは残念であり、愛する鬼瓦たちに申し訳ないと、夫はホームページを開設する準備を始めました。それと同時に自費出版を計画し、まず鬼瓦の宝庫である四国八十八カ所の紹介を、弘法大師生誕1200年に当たる2014年に合わせて出版することにしました。

生前3冊の本を上梓しましたが、『鬼瓦お遍路』が最初の出版で、思い出深いものだったようです。

2014年の刊行時の弘毅さんのご様子はいかがでしたか?

反響があり、地元紙「上毛新聞」「しんぶん赤旗」に紹介され、出版をきっかけに群馬テレビにも出演しました。「しんぶん赤旗」には、文化欄に「鬼瓦さんこんにちは」と題して4回連載で鬼瓦紹介を書かせて頂きました。

次作の鬼瓦のルーツに関する書籍の出版を計画する中、体調が優れず検査を受けたところ、直腸がんステージⅣと判明、2015年8月に入院し手術を受けました。既に転移があり余命1年足らずと宣告され、ホームページの立ち上げと次の出版を急がねばならないと考えていました。

弘毅さんが好きだった言葉はありますか?

ガンの手術を受け余命1年と宣告されてから、時々彼の心に浮かんだのは、数年前に友人たちと一緒に覚えた、命ある限りいきいきと生きることを歌った「釜石小学校 校歌」だったようです。井上ひさしさん作詞によるこの校歌は、東日本大震災のとき避難所となった小学校で、おとなたちをも励ましたということです。夫はこの最後のフレーズを、ときどきメールで人に伝えていました。自らを励ますことばだったのではと思います。インターネットなどでも探せると思いますので、ぜひ見てみてください。

弘毅さんの愛読書がありましたら、聞かせてください。

夫は手塚マンガのファンで、若い頃「鉄腕アトム」の初期の全巻を所有していました。子どもたちに読み継がれ、今はボロボロです。また江戸川乱歩など探偵ものが好きでした。青春時代はロマン・ロランやエリュアールの詩集なども読んでいました。

社会科の教員時代、市議時代は、その時の仕事に必要とされるテーマの書籍を読んで、広範に学んでいました。鬼瓦の魅力にハマッてからは、鬼と鬼瓦に関する本なら何でも貪欲に読んでいましたね。本棚は鬼や瓦に関する本にかなり占領されています。

弘毅さんはどんな方に『鬼瓦お遍路 四国霊場八十八か所 写真紀行』を読んでほしいと望んでいたでしょうか?

本書をきっかけに、初めて鬼瓦に興味を持ったという方も少なくありません。「お寺に行ったとき、これまで全く屋根の上を見ることなどなかったが、見上げてみるといろいろあって面白い」とわざわざ写真を送ってくださる方もいます。これは、私にとっても大変うれしいことです。お遍路に行かれる方は勿論ですが、なかなかそのゆとりがないという皆さまにも、写真とエッセイで歩いた気分を味わい、鬼瓦の魅力を知って頂ければ、こんなにうれしいことはありません。

夫が2017年に刊行した『鬼瓦のルーツ 写真紀行 〜韓国、中国、カンボジア〜』『鬼の栖む風景120』(ともに本の泉社)も合わせて読んで楽しんで頂ければありがたいです。

鬼瓦お遍路 四国八十八か所 鬼瓦霊場

「屋根の隅に載っているのをデザインにかかわりなく鬼瓦と呼びます。・・・・・・鬼の顔をした鬼瓦を「鬼面文(きめんもん)」鬼瓦」と呼びますが、竜面や天狗面もあり、家紋、寺紋、字紋、水紋、雲形のほか、獅子口(ししぐち)もかなりあります。・・・・・・その中で、文句なしに存在感を発揮しているのは鬼面文鬼瓦です。彼らこそ屋根の上のチャンピオンです。」(『鬼瓦のルーツ』より) 「滋賀県大津市の園城寺(三井寺)で『あれっ、こんなものが』と思わず声をあげたのは、屋根の上にかわいらしい桃の飾り瓦を見つけたときでした。そして見回してみれば、何匹もの鬼が私をにらんでいるではありませんか。それまでたくさんのお寺なども訪ねて来たのに、屋根の上をしっかりみつめることはなく、漫然と回っていたことに気づいて、ショックでした。それ以来、33年、鬼瓦と仲良くしています。親戚以上です。」(『鬼瓦のルーツ』より) 「日本に何十万とある寺院のうち、鬼面文鬼瓦を載せた建物があるのは、私の体験では、10分の1以下ですから、あるだけでも貴重です。ところが、四国霊場88か所の札所は、鬼面文鬼瓦のあるお寺が64か所、73%近くになるというすばらしさです。」(『鬼瓦お遍路』より)

ヒストリー

HISTORY 01 誕生~大学時代

平和こそ人間らしく生きることを保障する根本と確信

1936年、群馬師範の国漢の教官だった父と小学校の教員だった母との間に、4人きょうだいの長男として誕生。小学校2年生の春(空襲が激化した1944年)父は急性肺炎で、32歳の母と4人の子を残して急逝。その後、親戚の家を転々と居候しながら貧困のどん底のなかでやっと生きてきた一家だった。その苦闘のなかでも、中学の教員に復帰して民主教育のために頑張っている母の姿を見ながら、正義感に燃え、世の中の悪や不正を無くすために弁護士になろう、いやジャーナリストになりたいなどと将来を考える少年だった。結局、東京教育大学へ進み、両親と同じ教育への道へ進んだのは、人間の人間らしさを守り育てるために、教育が最も大切でやりがいのある仕事の一つではないかと考えたからだった。
大学時代はアルバイトだけで生活費・学費を稼がなければならず、住み込みの家庭教師、封筒の宛名書き、引っ越しの手伝い、餅つきなどをして必死に働いた。
高校時代にひとりで取り組んだ「アサヒグラフ」の原爆特集を海外へ送る活動がきっかけとなり、わだつみ会(日本戦没学生記念会)をつくり、反戦平和の運動に参加し続けた。学友たちと共に砂川基地拡張反対闘争にも参加、貧困や社会の反動化の根源に日米安保条約があることを学ぶ。その後、1964年には原水爆禁止協議会の理事として、返還前の沖縄と連帯する「沖縄返還要求38度線海上集会」に参加。その時の感動が、“平和こそ人間らしく生きることを保障する根本だ”という確信になり、体の中にしっかり根を下ろしていった。

HISTORY 02 教師生活時代

計13年の教師生活

神奈川で僻地教育3年、前橋商業高校で10年、計13年の教師生活を、ともすれば型にはめられがちな生徒たちに、自らの幸せを自分たちの力で切り拓いていく力を培い創造的に生きることのすばらしさを摑んでほしいと期待し、努めた。そして、それを妨害する教育への圧力、分断、差別とは、群馬県教職員組合の組合活動を通して闘った。

HISTORY 03 1972年~2000年

前橋市議会議員選挙にて初当選

1972年、「教育の経験を活かして市議会で活動してほしい」との要請を受け、教師の仕事を断念、前橋市議会議員選挙に日本共産党から立候補し初当選。37歳だった。 新しい任務はそれまでの生き方の延長にあったので、「平和で人々が大切にされるまともな世の中にするために全力で頑張ろう」と新たな決意で出発した。相談事や要求が次々に寄せられる多忙な毎日になり生活は激変したが、多くの方がたと力を合わせて知恵や協力を得、市政の民主化、市民の要求実現のために全力を注ぐ。 ガリ版刷りから始めた地域新聞「明るい利根西」は毎週発行、仲間たちの手によって各戸に配布され、600号を超えた。ジャーナリストになりたいとも考えた若き日の希望は、地域新聞や党の政策ビラ・各種団体のニュース作りに発揮される。

HISTORY 04 2001年~2017年

連続7期28年の議員活動からの引退、鬼瓦の撮影を本格的に開始

2001年、体力の限界を自覚し、連続7期28年の議員活動から退く。 折に触れて趣味のカメラで撮りためていた鬼瓦の撮影を本格的に始める。同時に「大利根9条の会」を地域の有志と共に立ち上げ、会員や子どもたちが描いた手描き平和ポスターを町のあちこちに貼り、「共謀罪を笑いとばす弁護士漫才」を企画するなど、平和と国政革新の活動を、生涯を通じて続けた。 2017年5月31日、直腸がんのため死去。享年80歳。

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