General Practitioner
~中山間地域の開業医~

No,001

山田 博愛

著者No,001 山田博愛

作品紹介

著者No,001 山田博愛

General Practitioner
~中山間地域の開業医~

山田 博愛

General Practitioner(総合診療医)として、中山間地域で医療行為を行う医師の1年間の記録をまとめたエッセイ。 中山間地域には、人も医療施設も少なく、そのような環境で必要とされているのはジェネラリストとしての哲学である。著者は中山間地域のGeneral Practitionerとして地域の人々と関わることで、中山間地域独自の幸福論があると感じ、その幸福論こそが次世代の世界の平和と発展に繋がると信じている。

プロフィール

著者No,001 山田博愛

山田 博愛

医師、岐阜県生まれ。県内の大垣市民病院、木沢記念病院などで勤務後、2000年に七宗町でカブチ山田クリニックを開業。2013年には医療法人BTFを立ち上げ、介護老人保健施設「穂」を開設。著書に「General Practitioner~中山間地域の開業医~」(幻冬舎メディアコンサルティング)がある。

座右の銘

繰り返すこと、興味を持つこと

1度だけの人生、きらびやかに革新的に、生を全うしたいと思う気持ちとは裏腹に、特に医療においては、「繰り返すこと、興味を持つこと」がとても大切だと感じています。日々新しい医学知識を修得していくことは言うに及ばず、常に人間に社会に文化に、そして科学や哲学や芸術に興味を持ち続けるために、間断なく様々な努力をしていくことが、仕事や人生に潤いと深みを与えていくのではないかと思っています。

インタビュー

ご執筆を終えられてのお気持ちは?

本業やその他の活動をする中で執筆したこの作品は我が子のようであり、我が子が世に受け入れられ、社会に資するような存在になってくれることを今は願うばかりです。ブログに加筆する形態のエッセイではありますが、自らの思想を整理し体系化できたことに、一義的な意義を感じています。

執筆自体にあまり大変さは感じませんでしたが、強いて言えば一般診療・救急・各種書類作成、その他医師会理事の仕事やボランティア活動、 そしてこれは趣味ですがジョギング・バスケ・ゴルフ・ジムや絵画制作の合間をぬっての執筆となると、夜12時以降となることがほとんどで、その点が大変でした。

出版したことで前述の通り、自らの思想を整理し体系化でき、若く活きのいい編集者の皆さんと巡り合うことができました。また読者という新たな理解者あるいは友人を得ることもできました。本を目にして当クリニックを受診される方もあるようです。つまらぬことかとは思いますが、名声を得、箔がついたような気がします。そのことにより、日々の生活・仕事に心のゆとりが生じ、適度の緊張感が生まれたように感じています。

医師として生きていくことをどのようにお考えですか?

私が医師になったのには父が大いに影響しています。父は自身が医師になれなかった悔しさを全て私に託しました。医学部に入れるためには手段は選ばず、私への暴力も当然のことと考え私を育てました。医師になるためのレールは物心がつく前から敷かれていて、動機については語るべきものを全く持ち合わせていません。しかし今はそれで良しとしています。動機は始まりの1点であり、それが不毛であるが故に、現在を全力で生きていかなければ……という強い危機感を持っています。
医師の仕事は、マイナス(病気)をゼロ(健康)にする仕事であると考えています。そのためには、当たり前のことを、機を逸することなく当たり前に行なっていく機動力と準備が必要です。今後も本来的なGeneral Practitioner(総合診療医)として、幅広く(内科・循環器科・消化器科・外科・整形外科・小児科・耳鼻科・精神科など)、高度な診療を継続していけるよう、弛まぬ知識の刷新と技術の向上、さらには積極的な設備投資などに、引き続き努めていくつもりです。一方医療でプラス(積極的な幸福の創造)の領域に立ち入ることは原理的に不可能であるため、医師たるもの医療以外の分野で社会に貢献していくことが必須であると私は考えています。

山田先生個人としてはどのような目標がおありですか?

私個人としてはやれることは極力自分でやることを旨としています。例えば、剪定・芝刈り・ペンキ塗りなど広大な敷地の整備。さらには料理・洗濯など家事一般も時には妻に代わってこなしています。趣味と実用を兼ねた、畑作り・釣りなども続けていきたいですね。これが私の考える広義のGeneral Practitionerとしてのあり方です。 そして特に力を入れていきたいと思っているのが我が町「七宗町」及び地域復興のための活動です。過去には、お笑いコンテストを企画し、200名のホールを一杯にしたり、お寺でのジャズコンサートや、自主映画の上映会を、地元の仲間とともに開催してきました。
今後もこうしたボランティア活動に尽力していくとともに、もう一歩踏み込んだ、持続可能で創造的な地方発展のためのプラットホーム造りに、積極的に取り組んでいくつもりです。

座右の一冊

司馬遼太郎

著:竜馬がゆく

竜馬は永遠の理想家

ここが魅力

学生時代に常に「竜馬ならどうする?」と問いかけて行動していた時期があります。次第に私は竜馬ではないし、この作品に描かれている竜馬は、司馬遼太郎という類まれな勤勉な作家が、『夜露が結露するかのごとく』して結実させた作品の一部であることに気付かされました。しかし竜馬は、強く男らしくおちゃめで自由奔放な日本的国際人として、私の永遠の理想像です。

内村鑑三

著:後世への最大遺物

勇気をもらった一冊

ここが魅力

財産をなす人もあれば、様々な作品を残す人もあれば、教授になる人もあれば、大臣になる人もあるが、それらは様々な因果や運というものにも左右される面もあり、必ずしもかような人々が人類に等しく貢献しているとは限らない。結局「後世への最大遺物」はあなたの生き方そのものである、という結論だったかと思いますが、何かの障壁にぶち当たった際にこの言葉が思い出され、結果に囚われず立ち向かっていこうと勇気付けられたことが何度かあります。

渡辺淳一

著:阿寒に果つ

死生観を見つめるキッカケに

ここが魅力

医師である渡辺淳一氏は、腕の立つ大学の整形外科医で将来を嘱望されていながら、その地位を完全に放棄して物書きに転身された方です。同作品は、阿寒湖が望める山の峠で美しく死んでいった少女を実話に基づいて描いた初期の作品ですが、自身もそのように雪山に足を踏み入れて、自ら命を絶とうかなと思ったことが若かりし頃に2回ほどあります。この主人公の死に顔を思い浮かべると、死は怖いものとは微塵も感じられず、むしろそのような安らかな死を受け入れつつ、美しく生を全うすることに価値を見出したがゆえに、今ここに存在しているとも言えます。

ヒストリー

HISTORY 01 1963年11月 教員の父、病院事務職員の母の もとに生まれる。

1963年11月 0歳

教員の父、病院事務職員の母のもとに生まれる。

妹1人。大酒飲みの父に対して、本業と副業を掛け持ちして昼夜問わず働いてくれていた母という対照的な両親だった。夫婦喧嘩が絶えず、誇れる家庭環境ではなかったのかもしれない。

HISTORY 02 1990年26歳 医師1年目

1990年 26歳

医師1年目

沢山の素晴らしい同僚(友)と先輩の中で、寝食を忘れるほど人の生死に直結する極限の状態に関わることができたことは、一生の宝である。

HISTORY 03 1999年5月 最愛の妻との結婚

1999年5月 35歳

最愛の妻との結婚

医師としても人間としても更なる自立の必要性を感じた始めた時期。

HISTORY 04 2000年 開業(自立)

2000年 36歳

開業(自立)

家族、地域の方々に支えられながらの開業、一人旅が始まった。善悪の判断、患者の経過、経営の状態、地域への貢献……全てが自らの責任に帰結する。責任もあるが自由もあり、日々高村光太郎の「道程」の一節「ぼくの前に道はない ぼくの後ろに道はできる……」を想起しながら、草だらけの大地をかき分けて生きているような実感がしていた。

HISTORY 05 2000年 家族との生活

2000年

家族との生活

家族は愛し合い、思いやりを持ち合いながら生きていくための人間同士の集まりであってほしい。今までもこれからも家族の存在が、いつも私を奮い立たせてくれる。

人生を変えた出会い

七宗町との出会い

医師として10年の経験を積んだ後、無医地区であったこの地で自立していくことを決意しました。ここには私の他に医師はおらず、慣れ親しんだ友人はもちろん、同じ志を持って医療人となった同僚もいません。都会から離れた土地で暮らし、開業医として経営にも携わりながら、人の生き死にに関わる仕事をたった一人でしていくことの責任は大変なものだと感じました。 さらに、クリニックの経営を考えるにあたって、私個人のことだけではなく、地域全体のことを考え、自ら行動に移していかなくてはいけないのです。都会の開業医のような競合とのせめぎあいは私には無縁でしたが、若い人が去り、崩壊していく地方での経営は小手先で何かが変わることはなく、じっと待っていれば誰かが……などということも当然ありません。物理的環境としても人的環境としても緊張感があり、厳しい環境であることは間違いありません。

しかし、都会では決して見ることのできない満天の星や、幻想的な蛍の光、季節ごとに違った顔を見せてくれる山々は、私に自然とともに生きる大切さを教えてくれ、地域の皆さんとあぁでもないこうでもないと考えを巡らせ企画したお祭りに喜ぶ人たちの顔を見ると、言葉にできない幸福感を味わうことができます。今や地方復興に携わっていくことは私の生きがい、というよりもこの地で生きていく上での必須事項となっています。様々な疾患で来院される患者さん全てに対応するためには一刻も無駄にしない勤勉さが、何をするにも便利ではない地で暮らすためには農作物ですら自分でつくる生活力が、そして衰退する地方を復興するには地域の皆さんとの協力が必要不可欠なのです。

地方には「何もない」のかもしれない。不便かもしれない。しかし、「何もない」からこそ、地域の皆さんと協力して築いていかなければいけない。

未来へのメッセージ

自分が本当にやりたいことを自分で選べる人間になってほしい

"未来"を思い浮かべる私は、いつも私の子供たちの将来を思い浮かべます。 こんな風に育ってくれたらいいな、こんなことにもチャレンジしてほしいなと、あれこれと考えます。 しかし、やはり一番に思うことは、「自由に生きてほしい」ということです。 親は子供にたくさんの期待をしてしまいます。 でも、必ずしも親の敷いたレールの通りに選び、生きる必要はないのです。 私自身、何を学ぶのか、どこへ進むのかを父から明確に示され、生きてきました。 今思えば、それが自身のためになったなと感じる面もありますが、正直窮屈にも感じていました。 だからこそ未来を生きるキミたちには、自分が本当にやりたいことを自分で選べる人間になってほしいと思っています。 これからまだ予期せぬ数多の経験をすることになるキミたちの成長を楽しみにしています。