第二回WEBコンテスト「イチオシ!」エッセイ

エッセイ部門1のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて

著者名:石川 雅之

そのとき祖父は臨終の床にあった。非常勤の講師ながら私が教師として教壇に立つようになった三十年前の秋のことである。

在学中だった大学院はまだ夏の休暇中だった。講師として、その前年の春から勤め始めた高校へは、週二日、教えに行くだけであったから、ごく自然に、私が日常の遣り繰りにも追われる母に替わって祖父を看ることが多くなっていた。

祖父は満で八十九。数え九十の享年なら天寿と言っていい。それでも、長く住まいを同じくし、二週間つづいている危篤の枕許で母や叔母たちを手伝って水を飲ませたり、下の世話をしたりしていれば、悲しみに近似した様々な思いの去来しないはずがない。ゆっくりと死へと向かう祖父をじっと凝視めながら、私はただ内向するばかりだった。

自宅でそうした日々を重ねるなか、私は、週二回の高校で斎藤茂吉の「死にたまふ母」の授業を進めていた。周知の通り、それは茂吉の処女歌集『赤光』所収の、生母へと向けられた挽歌群である。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

生母危篤の報に急ぎ帰郷して一週間、茂吉はその枕許で生母の確実に死へと近づくを看る。必死の介抱も虚しく生母の命ついに尽きるその時、頭上につがいのツバメが飛来し、歌人は「世尊が涅槃に入る時も有象がこぞって歎くところ」あるを思い出し「何となく仏教的感銘が深」いと感じながら、あまねく知られた右の一首を詠み上げる(斎藤茂吉『作家四十年」)。

その自註を読まずとも、逝くものと生ある小禽との鮮やか過ぎるほどの対峙は傷ましい。読む者の暗いところを大きく揺り動かさずにおかない一首である。

教科書は生母の死をめぐる五十九の連作すべてを採っていたわけではなかった。それでも、その前半部を概ね並べることで、事柄や時間の進み行きに沿って右の一首に至るまでの作品それ自体の結構が分かるような構成になっていた。

それら一首一首を、私は危篤の祖父の枕許から高校に出てきて三つのクラスで繰り返し繰り返し読み続け、授業し続けた。

ある作品を深く受け止めて、作者の感動を追体験しようとするとき、そこに自分自身のある時点の姿が重なり合ってしまうことがある。それは何も読むことばかりでなく、あらゆるものの享受に備わる働きであるだろう。ある作品に触れ、自分自身の過去や現在に思いを馳せることは、読むことの、聴くことの、鑑ることの蜜の味。趣味として受け止めるだけであるなら、その甘味に浸る、それだけで十分である。

しかし教えることは単なる個人的享受ではすまされない。作品を確実に受け止め、そこからもたらされるものを的確な言葉として、しかも解りやすく教師は生徒に伝え、考察の時間を与えて、その上でそれを身につけさせなければならない。公私を混同させることなく、限られた時間の中で生徒を錬成し、いくらかでも学びの歩を進めさせることこそが教えるものとしての務めであるのに、その時の私には、その基本が全うできなかった。いつの間にか、茂吉の生母は自分の祖父になり、生母をじっと凝視る茂吉は私自身になっていった。