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ザ・ビートルズの誕生

『ビギナーズ・ザ・ビートルズ 全8年のキセキ』の著者によるコラムです)

 

ザ・ビートルズはいつ、どのように誕生したのだろうか。もちろん舞台は英国・リヴァプールである。

ロック・バンドとしてのビートルズが本格稼働を開始した年は1960年であり、それまでアマチュア・学生バンドとして活動していた若者たちが、お金を取って一応プロとしての活動を始めたという意味で、この年はターニング・ポイントであり、ビートルズが実質誕生した年と位置付けることが出来る。

この年、彼らはプロとしてスコットランドやドイツ・ハンブルグにも演奏に出掛けるようになった。

バンド・メンバー中、最年長のジョン・レノンが10月で20歳を迎え、ジョージ・ハリスンは17歳、ポール・マッカートニーは18歳になっていた。

 

1957年7月にリヴァプール・ウールトン教会でのパーティーで演奏していたジョン・レノンをポール・マッカートニーが見て、その後二人が出会って会話したのがすべての始まりであることは、もう語り尽された有名なエピソードになっている。しばらくのち、ポールがジョンのバンドに参加し、次にポールが友人のジョージ・ハリスンを紹介し、彼もバンドに加わった。これでザ・ビートルズの4人のうち3人が揃った。1960年に入って、当時アート・カレッジのジョンの同年の友人スチュアート(スチュ)・サトクリフもバンドに参加した。

 

1960年の春ころ、メンバーの間でザ・ビートルズというバンド名が徐々に固まりつつあった。当時彼らのアイドルであったバディ・ホリーのバンド名 クリケッツがみんなの頭の中にあった。クリケットは昆虫の名前(コオロギ)と英国の球技の両方の意味がある。ビートル(beetle)はカブトムシだが、beatleと綴り替えをすると、同音で音楽のビートに通ずるという面白さを狙った。

日本ではかぶと虫は子供達に人気の昆虫であるが、英米では余り良いイメージは持たれていない。

Beatlesという名前は、始め英国人には何ともヘンテコリンな名前と思われたようだ。スチュはBeatlesではなく、Beatales(ビータルズ)を主張した。これはbeat allに通じて、全てを叩きのめすという意味になる。また、当初はシルヴァーを頭に付けて、Silver Beatlesと言っていた時期もあったようだが、徐々に自然と The Beatlesに落ち着いていったようだ。

バンドの生成過程でメンバーの悩みは適当なドラマーが見つからないことであった。何人かのドラマーが臨時で加わったが定着しなかった。何でも器用にこなすポール・マッカートニーがドラマーを務めたこともあった。アラン・ウィリアムスが彼らマネージャーになり、8月にドイツのハンブルクでの仕事を取ってきた時ドラマーを含めて5人であることが条件であったため、何としてもドラマーを見つける必要に迫られた。おしりに火がついた状況でやっと見つけたのが、ピート・ベストである。Tommy Moore、Norman Chapmanに続くバンドの3代目のドラマーで、1960年8月から62年7月の2年間ビートルズのドラムスを担当した。8月中旬から11月までハンブルクのナイト・クラブでライヴ活動を続けたが、ジョージ・ハリスンが深夜労働の年齢(18歳)に達していないことや、メンバー全員が正規の労働許可証を取得していないこと、更にはポールとピートの二人が部屋に放火したとの嫌疑をかけられるなどのトラブルが重なり、12月までにスチュ・サトクリフを除く4人が追われるようにして、故郷のリヴァプールに舞い戻った。

しかし、この4カ月に亘るクラブ出演でライヴ・バンドとしての力をつけると共に、熱心なファンも生まれてきた。クラウス・フォアマン、アストリット・キルヒヘアもそういう人達であった。スチュ・サトクリフとアストリットは恋仲になり、スチュはアストリットの家に匿われる形でハンブルクに残った。

なお、彼らが出演したクラブは、インドラ、カイザーケラー、トップ・テンである。カイザーケラーでは、リンゴ・スターがドラマーを担当するロリー・ストーム&ハリケーンズと交替で舞台を務めていた。

リヴァプールに戻った4人は12月から演奏活動を再開し、ハンブルクで培った派手なアクションとロック・バンドとしての実力で地元の聴衆の注目を集めるようになる。

1961年の4月から3か月間、ビートルズは再び海を渡りハンブルク巡業を行う。6月にはトップ・テン・クラブで共演していたトニー・シェリダンのバック・バンドとしてドイツ・ポリドールでレコーディングを行い、「マイ・ボニー」他数曲を録音した。8月にシングル・レコードとしてドイツで「マイ・ボニー」が売り出された。

リヴァプールに戻ってからもキャヴァーンをベースにライヴを続けて、熱心なファンを増やしていき、ザ・ビートルズはいつの間にかリヴァプール界隈で最も人気のあるバンドに成長していった。8月には彼らのファン・クラブも誕生している。スチュが担当していたベース・ギターはポール・マッカートニーが代わりに引き受けるようになった。

 

10月ジョンとポールの二人は、髪の毛を前に下ろしてビートルズ・カット風の髪型に改めた。

地元で大きなレコード店を経営していた若きブライアン・エプスタインも彼らの評判を聞き、11月にキャヴァーンに出掛けてビートルズの演奏を聞く。自分の店に「マイ・ボニー」を探しにきた青年がそのきっかけだったという逸話が有名だが、不思議なことにその青年レイモンド・ジョーンズは今日でも実在が確認されていない。この話はブライアンの創作であった可能性も指摘されている。

現在では公然たる秘密になっているが、ブライアンはホモセクシャルの強い傾向があり、ビートルズ、とりわけジョン・レノンがブライアンの性的嗜好の対象と見られていたことは、かなり事実に近いと思われる。ブライアンはビートルズと会い、彼らのマネージメントを行いたいという申し出を行う。

12月にビートルズの面々も同意して、ブライアン・エプスタインは正式にザ・ビートルズの2代目のマネージャーとなる。

ブライアンは別に彼の個人的嗜好だけでビートルズのマネージメントを引き受けた訳ではない。事業家として才覚もあり、彼らを一人前のプロ・ミュージシャンに育て上げることに熱心かつ献身的に努力した。クラブ等への出演契約を管理し、適正な報酬を得られるように努めた。毎日の行動日程をすべてキチンとタイプした書類にして渡し、すべてに対して時間を厳守するよう厳しく申し渡した。ステージ・マナーも細かく注意し、舞台で喫煙したり物を食べたりすることを禁止し、観客と私的なおしゃべりをすることも止めさせた。演奏は事前のセット・リストに従って行い、時間を守らせた。演奏の後、観客におじぎをさせることまで徹底した。服装にも注意を払い、それまでのジーンズに皮ジャンパーから、スーツを着用させるようにした。ブライアンは4人をテイラーに連れて行き、自腹でスーツを作らせた。スーツの素材やスタイルは彼らの要求を取り入れた。

このほか、ブライアンが4人に注文したことに、ジョン、ポール、ジョージが出来るだけ均等にリード・ヴォーカルを取らせるように図ったこと、レノン・マッカートニーの自作作品を積極的に取り上げるように働きかけたことなどがある。これは演奏料に加えて、将来レコードを出した場合、自作曲の印税収入が期待出来るというブライアンのしたたかな計算もあった。

少しずつ、ブライアンはビートルズの面々を彼の意向にそって“調教”していったと言えるだろう。

ファンの中には、ビートルズが奔放さを失い、“おとなしく”なってしまったと感じる人もいた。ビートルズ自身も多少の抵抗はあったろうが、ブライアンがバンドの運営をしてから身入りも良くなり、行き当りばったりから計画的に仕事が入るようになったことから、多少の細かいことには目をつぶるという態度であった。なによりプライアンはことビートルズに関しては、目先の採算を度外視して真剣にバンドを世に出そうと努力していることが明白であり、彼の献身的な努力は言わず語らず、ビートルズの4人に良く判っていたのだ。

 

地元リヴァプールでトップのロック・バンドの地位を確立した後、エプスタインの次の目標は一流のレコード会社とのレコーディング契約であった。リヴァプールで大きなレコード店を経営している利点を活かして、ブライアンがまず交渉したのは英国の大手デッカである。オーディションまでは順調に進んで、1962年1月1日にロンドンでオーディションを受けるが、結果は期待に反して不合格であった。

デッカも英国北部の大手顧客であるエプスタインに対して正面切ってノーの回答を言いづらかったのか、最終的に彼に結果が伝えられたのは2月になってからであった。「ギターを中心としたグループはもう、はやらない」という判ったような判らないような回答であった。その理由は色々と取沙汰されている。

・リヴァプールからの深夜の長距離ドライヴで疲れて体調を崩していた。

・ビートルズの面々が慣れないスタジオでのレコーディングで緊張して調子が出なかった。

・選曲が良くなかった。(ブライアンの意向でおとなしい曲が優先された)

・デッカ側にビートルズを評価する目(センス)が欠けていた。

おそらく、これらすべてが当てはまるのであろう。とにかくデッカはビートルズを蹴ったのだ。これが動かしようのない歴史的事実である。彼らは1日のオーディションで15曲を録音しており、現在非公式ながらそのすべてを聞くことが出来る。演奏の出来を自分の耳で確認して納得されたい方は挑戦されては如何か。

この中5曲は1995年に公式に発表されたアンソロジー1に収録された。Searchin’  Three Cool Cats  The Sheik Of Araby  Like Dreamers Do  Hello Little Girl の5曲である。Like Dreamers Do  Hello Little Girlの2曲はレノン-マッカートニーのオリジナルであり、自作曲を重視していたエプスタインの意図が読み取れる。始めの3曲はカバー曲であるが、Searchin’  The Sheik Of Arabyの2曲はジョージ・ハリスンがリード・ヴォーカルをとっている。

ビートルズにレコーディング契約を勝ち取ることがエプスタインの最大のミッションであり、彼は必死にあらゆるレコード会社に売り込みを図るが、運命の女神はなかなかビートルズに微笑みかけなかった。4月中旬になり、ビートルズは再びハンブルクの巡業に出掛ける。英国に残ったブライアンはレコード会社への売り込みを続けていた。ある人からオーディション・テープをレコードにした方が聞いてもらい易いというアドバイスを受けて、ロンドンのHMVでディスクにカッティングするが、たまたまそれを聞いた人が興味を示して、EMIのジョージ・マーティンに話して、ブライアンはジョージに会いに行く。

EMIにはすでに一度蹴られていたが、マーティンは新しいポップスの発掘に熱心であったことから、ビートルズに興味を示し、レコーディングへと話が進む。かくして6月6日のアビー・ロードでのレコーディング(オーディション)へと結びついていく。ブライアンは5月にハンブルクにいるビートルズに電報を打ち、EMIとのレコーディング契約について伝え、新曲を用意するよう指示している。

 

ここから先は歴史の表舞台の話となるが、この時期暗い影を落としているのが、ドラマー交替劇である。

ピート・ベストからリンゴ・スターにドラマーの交替が行われた。EMIのジョージ・マーティンの意向なのか、ビートルズ側の意向なのか諸説あるが、ビートルズ自身の意思が強かったというのが現在の結論である。ジョージ・マーティンはピートのドラミングに不満を持っていたが、レコーディングだけに関していえば、代役を使う手段もあり、メンバー・チェンジまで踏み込む意思はなかったようだ。現にその年の10月のレコーディングでは、後にも先にも一度きりではあるが、リンゴの代わりにスタジオ・ミュージシャン(アンディ・ホワイト)が使われている。ではビートルズは何故ピートを辞めさせたのか?一つには、彼ら自身ピートの演奏に満足していなかったこと、それと性格的にピートと他の3人はしっくりいかなかったのだ。ピートは2年間ビートルズとプレイしたが、結局バンドに溶け込めなかった。しかし、嫌な役を押し付けられたブライアンがピートにバンドを辞めてくれと伝えると、ピートは非常に驚いたと言われている。

それでは、誰がリンゴを後任に推薦したのか?ジョン、ポール、ジョージの3人ともリンゴとは顔見知りであったが、最もリンゴを推したのはジョージ・ハリスンであった。ビートルズの4人を呼ぶ際、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの順が定着しているが、これにハッキリした理由がある。ジョンがグループの創始者であり、ポールをバンドに引き入れた。ポールはジョージを呼び込み、ジョージはリンゴを加入させたという訳だ。従って4人の表示順にはそれなりの背景と理由があるのだ。

 

ビートルズは1960年を皮切りに数度にわたりハンブルク巡業を行い、ライヴ・バンドとしての腕を磨くと共に新たなファン層を獲得し、グループとして一皮むけたといえるが、ここでハンブルグでのライヴの記録を整理しておきたい。

最初は60年8月から11月までの4か月間、前半はインドラ・クラブで48日間200時間以上出演し、後半はカイザーケラーとトップ・テン・クラブで58日間ライヴを行った。

2回目は61年4月から7月始めまで92日間トップ・テン・クラブに出演し、503時間演奏している。

3回目は62年4月13日から5月31日まで48日間(172時間)スター・クラブに出演した。

最終は同じく62年12月25日から31日と短期間であるが、これは先方との契約を守るために行ったようだ。この時期のライヴはアマチュア録音ながら、ライヴの模様がテープに収められて、公式・非公式合わせて幾つかのレコード・CDがリリースされている。録音は良くはないが、貴重な演奏記録として価値がある。

 

ところで、ビートルズはレコード・デビュー以前のライヴでは、もっぱら彼らが気に入ったロック・ポップスなど他人のレコードを幅広く取り上げ、自分達流にカバーしてステージで演奏していた。レノンとマッカートニーの曲作りは続けていたが、ライヴで自作曲を披露することは稀で、もっぱらカバー曲中心のレパートリーであった。ジョン・レノンはライヴ・バンドとしてのビートルズが最高の演奏を聞かせていたのは、キャヴァーンやハンブルクでの日々であったという趣旨の発言を行っている。しかしこの時期の彼らの演奏は、上記のハンブルクでの状態の悪いアマチュア録音などごくわずかしか残されていない。初期、主に1964年までのレコード製作では、自作曲を補うため二十数曲のカバー曲を公式録音しているが、ビートルズがステージで演奏していたカバー曲のレパートリーはそれをはるかに上回る数であった。これらレコード化されなかった曲の数々を、もう我々は聴くことができないのだろうか?いや、ガッカリすることはない。1963年を中心に前後3年間ほど、ビートルズはBBCラジオに断続的で出演しており、そこでは彼らのヒット曲に交えて、かなりの数のカバー曲を取り上げ、BBCのスタジオや公開録音で披露していたのだ。今ではBBCで演奏した未発表カバー曲の数々は二組のBBCライヴ盤(CDで計4枚)で、レコーディング・スタジオには幾分劣るものの、充分満足できる音質でいつでも聴くことができるのである。これらの演奏は、BBCによりスタジオ・ライブの形式で録音されたもので、彼らがキャヴァーンなどで演奏していた曲目とほぼ一致しており、ライヴ録音であることから、彼らがステージで演奏していた状態に極めて近いものであると推測されるのだ。ジョン・レノンの言う彼らのピーク時の演奏がどんなだったかを、我々はこれらCDを通じて聴くことが出来るのだ。

 

BBCライヴの数々が日の目を見ることになったのは、ケヴィン・ハウレット氏の努力の賜物である。

彼は幼い時分にラジオで聴いたレコード化されていないビートルズの歌の数々を発掘したいという強い希望を抱いてBBCに入社し、困難を乗り越えて彼の夢を実現したのである。BBCライヴのオリジナル・録音テープは愚かにもBBCにてほとんど廃棄処分(ないし再利用)されてしまい、ごくわずかしか残っていなかったが、幸い関係者が非公式に保存したり、ラジオからエア・チェック録音したもの、あるいはBBCの海外放送向けにディスクの形で保存したもの(Transcription Disc)などが数多く残されており、これら音源を基にして、ケヴィン・ハウレットは辛抱強くBBCライヴを再現していったのだ。

1982年にハウレットは英米のFM放送局向けにThe Beatles At The Beebという3時間の特集番組を作成して頒布した。私も当時NYに住んでいて、この特番を必死にエア・チェックした。それまで音質の悪いBBCライヴの断片を海賊盤などで耳にしてはいたが、82年の特番は、音質・収録された曲数とも、これまでと比較にならないほど充実した内容であり、一聴して狂喜したことを覚えている。

 

おそらくビートルズ関係の法的問題が未解決であったことから、これらのマテリアルはすぐに正規のレコードとして販売されることなく、以降10年ほどは放送された内容を収録したもの、あるいは元となった音源などが流出し、レコードやCDでひそかに流通し、海賊盤業者を潤わせることとなった。

1994年11月になり、やっと法的問題も解決して、BBCライヴ音源を編集したCD(“Live At The BBC”)が2枚組で公式発売されるに至った。82年の特番から12年が過ぎていた。その後「ザ・ビートルズ・アンソロジー」プロジェクトとして、ビートルズの歩みを6時間に纏めたTV番組やスタジオで録音され未発表であった音源(スタジオ・アウトテイク)などが順次リリースされていったので、BBCライヴはそれの先駆けであった訳だ。2013年11月には、94年版とは一切ダブりのない選曲で、第2弾 “On Air-Live At The BBC Volime2”が2枚組CDで発売された。この際、94年版もオリジナル盤と若干異なる体裁でリマスターされた。

 

最後に二つのエピソードを紹介して、この章の締めくくりとしたい。

ビートルズの面々が育った1950年代英国は“ゆりかごから墓場まで”のキャッチ・フレーズで知られるごとく、徹底した社会福祉制度が施行されており、低所得者への手厚い福祉施策が実施されていた。たとえばリンゴはかなり貧しい階層に属していたが、そういう彼が高価な楽器であるドラムに親しめたのは、入院先での社会福祉プログラムのおかげであった。またビートルズに限らず、リヴァプールの多数のアマチュア・ロック・バンドは稼ぎ時の夏場にバンド活動で収入を得、冬場に演奏の口が掛らなくなると、失業手当(Dole)で糊口をしのいでいた。このためRock and Dole という言い方が生まれたそうだ。1970年代後半サッチャー首相の時代にこれら福祉制度が見直され、手厚い社会福祉は非効率の温床として厳しく見直されたが、1960年代以降英国の若者の音楽が世界に広まった背景には、それ以前の社会福祉制度がそれを促進したという見方も出来るのだ。

 

ビートルズの4人の中で、子供時代に一番音楽に親しむ環境にあったのは、ポール・マッカートニーである。彼の父親ジム・マッカートニーは若い頃ジム・マック・バンドなる楽団のリーダーであった。

残念ながら音楽での収入は限界があり、勤め人(セールスマン)として働き、一家を支えていたが、毎年大晦日の晩には家族が居間に集まり、父親の弾き語りのピアノを聞きながら過ごす習慣があったそうだ。そんな時ポールは決まって父親のピアノの足元に寝そべって、心ゆくまで音楽を堪能していたそうだ。彼は物心がついて以来の音楽が好きで、ミュージシャンとしての血を親から引きついでいたといえる。カエルの子はカエルという訳で、ポールにとって、音楽を演奏して観客を喜ばすことは天職といっても良い位自然なことなのであろう。

 

英デッカに蹴られてから、ブライアンの懸命な努力にもかかわらず、あらゆるレコード会社に拒否され、最後の最後で大手EMI・パーロフォンのプロデューサー ジョージ・マーティンの目に留まり、レコード・デビューを果たしたのだ。後々の結果から見れば、それまでのオーディションに失敗し、最後にジョージ・マーティンと巡り合ったことは、ザ・ビートルズにとってまたとない幸運であったことは疑いない。このように考えると、ブライアン・エプスタインとの出会いも含めて、この時期の彼らが幸運の女神の見えざる糸に導びかれたような運命的なものを思わずにはいられない。

 

■著者紹介
『ビギナーズ・ザ・ビートルズ』(高瀬重良・著)
青春時代をビートルズに捧げ、ジョンが凶弾に倒れたときはニューヨークに居合わせていた。本書は、著者が五十数年かけて収集した膨大な資料をもとに、ビートルズが活動した奇跡の8年間と解散後を分類、真実をありのままに編年体でまとめあげた集大成である。なぜ彼等は常にロックシーンの最前線にいられたのか? ポップ・アイドルからミュージシャンへ転向する契機はなんだったのか? 解散を決定づけた出来事は? 事実のみを丁寧に積み重ねることで、次第に明らかになってくるビートルズの秘密。エッセイ集でもない、ウンチク本でもない、徹底的にファン目線のビートルズ研究書がついに登場。

 
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